千の星
4
「なんだって?」
「×××××!」
男は叫んだ。
突然、森が一瞬シンと沈みかえったかと思うと、続いてざわざわと激しくざわめきだした。 木々の梢、大枝の葉、獣の唸り、妖魔の叫び、それらが一斉に鳴り出したかのようだった。 ざわりと背筋も凍るほどの妖気と殺気を感じて、妖狐は男から飛び退いた。 人の変化を解き、五尾の妖狐の姿で構える。 体が一回り大きくなっていることに気付いた。
くそっ もう少しで最後まで喰らえたものを。
歯を剥き出し、低く唸りを上げて辺りを窺う。 男は体を折って蹲り、なんとか立ち上がろうと膝を立てていた。 その男の向こう側、藪をがさりと分けて巨大な白い虎形の妖魔が姿を表した。
男は立ち上がり、走り出した。 二体の巨大妖魔の間から逃げ去ろうとしたのかと思いきや、彼は白虎に向かって身を投げ出すようにその首に抱きついた。
---しまった、こいつの”男”か。
力の差は歴然だった。 四神のひとつに数えられるほどの妖魔。 恐らくはこの辺り一帯の主なのかもしれない。 今は妖狐と同じくらいの大きさでいるが、本性を現せば小山ほどもあるだろう。 禍々しく漏れ出る妖気が器に不釣合いで溢れ返っている。 咆哮は地鳴りのようでビリビリと空気を震わせた。 妖狐は五本の尻尾を全て下げ降参の意を表したが、自分の情人を犯されかけて許してもらえるとは思えず、じりじりと後退りする以外何もできなかった。 殺される。 そう思った時、白虎の首に貼り付いたままだった男が白虎の耳に必死に何かを訴えかけているのが聞こえてきた。 自分のされた無体を論っているのか。 もうだめだ。 目の前が暗くなる思いで最期の瞬間を待っていると、どうしたことか白虎が白煙とともに人に変化した。
白髪の所々に灰色のメッシュが入っている頭をした長身の男は、引き裂かれた衣服をひっかけたままの半裸姿の情人と何か言い争いを始めた。 この隙に逃げればいいものを、と自分でも思ったが、妖狐は成り行きを見守らずにはいられなかった。 何故なら、犯されかけた当の本人がなんと強姦魔の命乞いをしているらしかったからだ。
---信じられない…。
妖狐は男の顔をまじまじと見つめた。 そういえば、直ぐにでも飛び掛ってきてもよさそうだった白虎がこうも二の足を踏んでいたのは、首に男がぶらさがっていたからではなかったか?
「すまなかった…。 許してくれ。」
妖狐は再び人に変化すると、膝を折り両手を地に付いた。
「許さんっ!」
「お願いですっ」
男の懇願の言葉を最後に、それきり沈黙が降りた。 時折、白虎の低く唸る声が聞こえたがそれだけだった。 妖狐は地に伏していたためふたりの様子は窺い知れなかったが、嗚咽が聞こえてきて、思わずはっと顔を上げてしまった。 白虎の胸にきつく抱き締められた男の顔が、肩口で天を仰いでいて、頬が月明かりに光っていた。
「許してくれ。 心から詫びる。 俺がわるかった。」
生まれてこの方、これほど殊勝な心持になったことはなかった。 人間というものを見縊っていたと思った。
「俺は許さないが、この場は樒(しきみ)に免じて収めよう。」
「しきみ?」
ゆっくりと男を伴って白虎が歩み寄る。
「そうだ。 海野 樒だ。 この男の顔と名前をよく覚えておけ。 この男が窮地にいたら万難を排してでも助けろ。 誓え。」
「わかった…。 誓う。」
「おまえも解っただろう。 樒はそこらへんの人間とは訳が違う。 妖魔も、同じ人間ですら信用ならん。 おまえは裏切るな。 樒を、裏切るな。 おまえの命を救ったのは樒だ。」
「わかった。」
妖狐は樒を仰ぎ見た。 黒い髪、黒い瞳、面差し。 ひとつひとつ目に焼き付ける。 困ったように眉を寄せていた男は、それでもちょっと微笑んだ。 犯されかけた相手に微笑む…。 妖狐は彼に向けて深く頭を垂れた。
「すまなかった…。」
「おまえの噂は聞いている。 評判はよくないぞ。」
白虎が幾らか怒りを収めた様子で言ってきた。
「妖魔を喰い散らかしているようだが、そのことについては何も言う気は無い。 元より弱肉強食が習いだ。 だが、人間の手先になっているというのはいけ好かない。」
「うぅ…」
妖狐はいささか跋が悪く、視線を逸らした。
「木の葉党の頭の子倅に遣われていると言う話だが。」
「真名を握られているんだ。」
「マヌケだな。」
ふふん、と鼻で笑われて少しムッとする。
「名付け親なんだ。 タイミングが悪かった。」
言い訳する。
「あんただって、その、樒・さんに…」
白虎と樒は、はっとして顔を見合わせた。
「やっぱりここで殺しておくか…」
ええ〜っと眉尻を下げてふたりを交互に仰ぎ見ると、樒がふっと吹きだして声をたてて笑った。 笑って、そして白虎の胸に縋って言った。
「あなたが死んだら、わたしも死にますから、この人は他人に漏らしたりしませんよ。 ね。」
ね。
妖狐は暫らく呆然とその可愛らしい仕草に見惚れていたが、すぐぶんぶんと首を何度も縦に振った。 あー残念だ、この人が自分のものじゃないなんて。 それでも、自分の命がどうにか繋がったばかりでなく、この二人に多少なりとも認められたらしいことが嬉しかった。
白虎は、それでも少しは仕置きをしなければ、と妖狐の目の前で樒と睦もうとしたが、樒に頭から却下されて渋々「声だけでも聞いて羨ましがれ」と言うに留めた。 「いい声で鳴くぞ」と付け足して、また樒に頭を殴られてもにこにこ笑っている白虎は、去り際に一言妖狐に言った。
「木の葉党はこの国の長の反対勢力に付くらしい。 妖魔狩りを始めるという噂もある。 人間同士がどう争おうと俺は干渉するつもりは無いが、妖魔狩りに出会ったら容赦はしない。 おまえも覚悟しておくことだ。 次に出会った時、味方同士だとは限らない。 だが、樒だけは守れよ。」
この時妖狐は、この後そう遠くない未来に、樒の命と白虎の真名とを天秤にかけなければならない運命に陥ることを知らなかった。 白虎の方は、何かのっぴきならない事態が間近に迫っていることを感じていたのかもしれなかったが。
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