東方不敗
- The Asian Master -
4
それは、ぽうとオレンジ色に灯った灯りのように見えた。 3日程の任務からの帰り道、木の葉外縁の森の中で、そこだけが遠くからでも異様に明るく光っていた。 カカシは完全に気配を絶ったまま、灯りに引き寄せられる虫よろしく光に近付いて行った。 近くまで来ると、それは人だと判った。 男が一人、太い木の枝の上で酒盛りをしているのだ。 木の幹に背を預けるようにして凭れ、片手に杯を持って時折口元に運ぶ姿が非常に儚げで、今にも消えてしまいそうな風情にカカシは知らず見入っていた。
「イルカ先生?」
少し離れた枝に止まり首を捻る。 忍服を着ていない所為か遠くからは判らなかったが、それは確かにイルカだった。 薄いブルージーンズと同色系のTシャツに着古したようなダンガリーのシャツを羽織り、額宛もしていなかった。 だが髪だけはいつもどおり登頂で一束に括っていたので、間違いなくイルカだと思った。 口を利かなくなってから何週間も経っていた。
「うーん、どうしよっかな」
一人酒を楽しんでいる所を邪魔するのも悪いと思ったし、恐がられている相手に態々接触を持つのも気が引ける。 このまま通り過ぎようか。 だがカカシは思い直して声を掛けた。 イルカの居る場所が遠くからでもはっきり目を引くほど目立っていたからだ。 木の葉の外縁とは言え、敵忍がしばしば潜り込む森だった。
「イールカせんーんせ」
イルカは、カカシが目の前に降り立つまで全くこちらに気が付かなかったようで、目を丸くして口をぽかんと開けたまま一声も出さずに固まった。
「こんな所でなーにやってんです?」
「カカシ…先生、ですか?」
「はい」
酒の瓶と杯を置いた小さな盆を挟んで同じ枝に鳥のようにとまり、カカシは膝を抱えて蹲った。 イルカは、額宛と口布でほとんどが覆われているカカシの顔を、穴の開くほど凝視している。 まだ信じられないといった風だった。
「あれ? 明かり、灯してなかったですか?」
見回すと、光源となり得るような物は一つもなく、カカシは首を傾げながら思わずイルカに問うていた。
「? いいえ」
イルカも小首を傾げて首を振る。
「おかしいな、随分遠くから光って見えたんだけど」
「ここがですか?」
「はい」
きょろきょろと見回しながらそれとなくイルカを観察する。 私服だと随分若々しく見えた。 いつもの忍服だとどこかオヤジ臭い人だという感があったのだ。 それにスリムジーンズの足の細さやシャツ越しにも判る肩の薄さなどが目に付き、意外と着太りするタイプだったんだな、と認識を新たにした。
「だから危ないよって、ちょっと注意しようと思って。 でも明かり、無いね」
「無い、ですが」
「おっかしいなぁ、なんでここだけ明るく見えたのかな?」
「さぁ」
やんわりと微笑みを漏らし、イルカはまた首を傾げた。 いつもの怯えたような気配がないなぁ、とちょっと嬉しくなった。 きっと酒に酔っているのだろう。 声を掛けてみてよかったなぁ、と気が付くと自分もニコニコしてしまっている。 変な感じ、とこそばゆい。 コリコリと頬を掻いていると、イルカはふっと思い出したように凭れていた幹から身体を起こし、右手の杯を差し出してきた。 その柔らかな動作がほんのりと自分の身体の中に「安心」という暖かな火を灯すようで、カカシはアカデミーの子供達をふと羨ましく感じた。
「任務帰りなんですか?」
「そう」
「一杯いかがですか?」
「うーん、やりたいのは山々だけど、遠足はオウチの玄関潜るまでが遠足ってね」
「ふふ」
目尻を下げてイルカは笑った。 そしてまたゆっくりと後ろの幹に凭れた。 その幹にさえ羨望を覚え、カカシは訳の判らない焦燥に少し居心地が悪くなった。 膝を抱えたまま上目にイルカを見ると、ちょっと顔を顰める。 意地悪を言ってやりたくなったのだ。 そうする事で説明のつかない自分の感情を散らしたかったのかもしれない。
「今日は恐がらないんだね」
「え? 恐い? 俺が、アナタをですか?」
「そう」
「?」
イルカも眉を顰め、緩んでいた口元もきゅっと引き結んだ。 だが木に凭れたまま相変わらず首を傾げる姿が、やはりいつもとどこか違って見えた。 そう言えば、こんな風に普通に話すのも初めてだったかな、と思い返す。
「あれ? 恐いんじゃなかったの?」
だが、何時まで経っても言葉を発しないイルカに焦れてカカシが先に口を開いてみれば、イルカの顔はちょっと哀しそうに雲っていた。
「いいえ。 誰がそんな事言ったんですか?」
「えーっと」
アスマだったかな? とカカシも思わず一緒になって首を傾げてしまった。 回りは暗い森の闇ばかりで、獣の気配と風に葉が鳴り梢が擦れる音が時々伝わってくるだけだった。 二人で居るこの太い木の枝の上も同様に暗いはずなのだが、やはりぽわんと明るく感じる。 何故だろう?変だなぁ、とそちらにも首を捻っていると、ぷっと吹き出すイルカの笑い声が聞こえてきた。
「あっ 酷いな笑って。 俺、これでも気にしてたのに。」
「アナタがですか?」
「そうそう」
「まさかー」
「なぁーんでよー」
思わず知らずぷぅと頬を膨らますと、イルカは益々笑い転げた。 こんなに笑った顔、初めて見たなぁと思ったが、それが間違いである事にはすぐに気付いた。 アカデミーで子供と居る時や同僚と話している時などのイルカは、よく大口を開けて豪快に笑っている。 そうだ、自分に対してこんな風に笑い顔を見せてくれたのが初めてってだけだったか、とちょっと嬉しく感じちょっと落ち込むカカシだった。
「俺、いつもアナタの前に出ると緊張しちゃって、それであんな風になっちゃうんです」
「緊張? 恐くて緊張するんじゃないの?」
「いえ、恐いとは思ってませんよ」
「ほんと?」
「ほんとほんと」
「ふーん」
笑いすぎて涙目になっている目尻を擦りながらイルカがした言い訳に一応納得した顔をして見せ、恐怖による緊張以外の”緊張する場面”をあれこれ思い浮かべつつ、カカシはしゃがんだままだった姿勢をやっとこさ崩した。 注意だけして直ぐに行こうと思っていたのだが、恐がられていないならもうちょっと長居してもいいかなと言う気になっていた。 その場に尻を着ける時、思わず「よっこらしょ」と掛け声を出してしまってバツ悪くイルカを横目で見ると、案の定くっくっと必死で笑いを堪えている。 こんなによく笑う人だったんだなぁ、とちょっと呆れた。
「ちょっとだけならいいんじゃありませんか? 暖まりますよ」
「へぇ、アカデミーの先生の言い草じゃあないね」
縁をそっと拭いながら差し出してきた杯を今度は素直に受け取って、掲げ持ったまま片手の指先で口布を引き下げイルカが注いでくれるのを待っていると、イルカは酒の瓶を持って注ぐ姿勢でまた固まってしまった。
「おっとっとっ こぼれちゃうよ」
カカシが慌てて杯で酒瓶の口を押し上げても、イルカはポカーンとカカシに見入っている。 よく固まる人だなぁと、カカシも困ってまた首を傾げた。
「イルカ先生? どうかした?」
「あ、あの…、か、顔、顔が…あの」
「はぁ?」
「みー見せてもい、いいいんですか?」
「? だって下ろさないと酒飲めないしぃ。 恐い?」
「い、いえ! とんでもない! お、おきれいです!」
「ぷっ うくくくくっ イルカ先生っておっかしーねー」
男に向かって「おきれいです」はないでしょ、とカカシが笑っていると、イルカもやっと吃驚した表情を収めニコーと微笑んだ。 固まった時の硬い気配が、反動のようにゆるゆるーっと緩んでいく。 極端な人だなぁと思った。 イルカが思い出したように酒瓶を持ち直しカカシに向かって差し出してきたので、カカシも黙って杯をまた掲げ持つ。 酒は浪波と注がれた。 それは香りも味も染み入るように甘く深く、喉越しも良かった。
「うわっ うんまっ」
「そうでしょう? 三代目に昔いただいたの取っといたんです。」
「あの爺さん、イルカ先生贔屓だったからねぇ」
「そう…ですね」
「あれ? ごめんね、気にした?」
「いいえ、ほんとの事でしたから」
「…」
ふーん、自覚があったんだ、と意外に思い、でも哀しいんだね、と亡くなった人を思い出した。 今夜の酒盛りもきっと、故人を偲んでのことなのかもしれない。 邪魔して悪かったかな、と暫らく静かに呑んでいると、イルカが俯いてポツリと喋り出した。 雰囲気に少し緊張が滲んでいた。
「あの…、俺、中忍試験の時、アナタに失礼な事言って…」
「ああ、あの時は俺もきついこと言っちゃってすみませんでした」
「あ、あのっ」
ちびちび酒を舐めながら返事をすると、イルカは慌てたように両手を身体の前でフリフリしながら顔もフルフルした。
「もう、なんで先にアナタが謝っちゃうかな。 俺の立場ないじゃないですか。」
「はぁ、ごめんなさい」
「またー」
俺に謝らせてくださいよ、と眉尻を下げるイルカ。 だがその顔には元の柔らかな笑みが戻り、張りかけていた緊張の糸もまた緩んでいくのが判った。 カカシは、時々襲ってくる訳の判らない居心地の悪さは別として、ころころと変わる気配を隠そうとしないこの中忍先生の側に居るのが楽しくなってきていた。 里に居る時とは全く違う。 鎧が無い。 まるで素肌で居るようだ。 ここの所為なんだろうか? 俺はラッキーだったんだろうか、こんな彼と居合わせて…。 カカシは、ラッキーなんだと思うことにした。 だって居心地がいい。 居心地が悪いけどいい。 へんなの。 でも、と思うのだ。 こんな感じは今までなかったと。 だから、面倒くさい儀式めいた事にも付き合ってあげてもいいかな、という気になってきた。
「じゃあ、どうぞ」
そう言って、イルカに向き直って掌を向けると、イルカは下げた眉尻をもっと下げて微笑み、それから真面目な顔をして居住いを正した。
「あの時はすみませんでした」
「はい」
手まで着いて律儀だなぁ、と見ていると、ぴょこっと頭を上げて満面に笑みを浮かべてくる。 眩しっ と思わず目の前に手を翳したくなった。
「気が済んだ?」
「はい」
「やっかいな性格だよね」
「はい、よく言われます」
「あの時からだよね、俺のこと恐がったの」
「恐がってた訳じゃないってさっきも…」
「でもさ、俺が受付に行くとさ、アンタの気配がこう、カキーンで硬くなるの俺凄い嫌だった」
「す、すみません」
イルカはまた手を着いて頭を下げた。 つむじが見えたのでそれを見ながら最後の酒を啜る。 別に曲がってないな、と思った。
「あの時の事は早く謝って蟠りを解きたかったんですけど、皆の居る前ではまたご迷惑になりそうだったし、かといってプライベートのアナタは俺のこと避けてるみたいだったから…」
「ああー」
アレはだって政さんが、と言おうとして止めた。 きっと政さん達は内緒でこの人を守っているつもりなんだろうから、イルカ本人に言っちゃあ拙いよね、と言い訳を考える。
「アナタ恐がってるみたいだなって思ってたから、近付いたら悪いかなぁって」
「そんな! そんなことは…」
「うん、そうね。 もっと早く声掛けてればよかったかもね。 でも俺もね、アンタとこんな風に話せる日がくるなんてこれっっっっぽっちも思わなかったから」
親指と人差し指をぎゅうとくっつけて、これでもかと隙間を無くして見せればイルカも笑った。
「俺もです」
ごめんなさい、とまた謝り、イルカはちょっと項垂れた。 括った髪の解れが白い項を飾り、一日の経過を窺わせていた。 細い首だなぁ意外だなぁ、と思ってカカシはまたどうしようもない居心地の悪さを感じ、手に持ったままだった空の杯をイルカに返した。
「ごちそうさま、一杯だけにしとくよ」
「はい、任務おつかれさまでした」
「ねぇ、アンタもしかして相当酔ってる?」
「え? ……さぁ、どうかな…」
「明日、素面になったらまた元通りカチコチのイルカ先生に戻っちゃったりする?」
「お…俺は…」
「ねぇ、また今日みたいに話してくれる?」
イルカは、信じられない物を見る目付きで随分と長いことカカシを見ていた。 ぽかーんと口を半開きにしたままで、腰を浮かしたカカシの顔を見上げ、瞬きひとつしない。 目が乾きそうだなぁ、と要らぬ心配までした。
「酒が入ったら話せるのかな? ねぇ、今度酒に誘ってもいい?」
「は…はい」
こくり、とスローモーションのようにゆっくり、イルカの顎が下がってまた上がった。 それを見て、カカシも一つ頷いて立ち上がる。 気持ちがウキウキしてくるのが自分でも判り、変だなぁ、と内心で首を捻った。 ポカンとしたままのイルカが心配で、送ろうかと再三申し出たが、イルカは見上げたままふるふると首を振るばかりだった。 寒そうだからと自分の着ていた防寒用マントでイルカの肩を覆い、状況を中々飲み込めないでいるのか唯ポカンとしたままされるがままのイルカがやっと慌て出すより先に、再び森の闇に身を躍らせる。 振り返ると、イルカが枝の上に立ち尽くしていた。 やはりそこだけぽうっと明るく見えた。
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