4


 忘れた鼓動を取り戻そうと心臓がのたうつ。 どうして?と思うほど体中が軋むように痛んだ。 生きる痛みに苦しみもがき、やっと山を越えて呼吸ができるようになった時に見たものは、置屋の天井だった。

「生きてる…のか」

 喉から搾り出すような声が出たが、体はぐったりと動かなかった。

「どうして」

 体を起こせなかったので顔だけ横を向けると、カカシの背が見えた。 窓の方を向いて蹲るカカシは膝でも抱いているのだろうか、普段猫背の背を更に丸め、頭をその膝の間に埋めている。 その様は、アカデミーの低学年の子供が拗ねていじける時の様子を思い出させた。

「死なせやしませんよ、この卑怯者」

 ぼそりと呟く声がする。 背は相変わらず丸まっている。 そのこちらを向かない背をポカンと見つめた。 何も考えられなかった。

「そんなに死ぬほど俺が嫌なんだったら、別れてあげますよ」

 カカシはこちらを向かないまま立ち上がった。

「仲間に目の前で死なれた人間がその後どんな人生を送るか、そんな事も判んない人なんてこっちから願い下げだ」

 一言も無かった。 自分勝手はよく判っていた。 だから黙って頷いた。 背を向けたカカシには見えないだろうけれど、多分伝わるだろう。 でもこれじゃあ解放はされないな、と思った。 カカシはどうか知らないが、自分はやっぱり死んでしまいたかった。 このままカカシに囚われ続けて、生きていけるのだろうか。

「じゃ」

 後ろ姿が遠退いて部屋の戸口に立ったので、本当にこれでお終いなのだと判った瞬間、ぎゅっと心臓が引き絞られるように痛んだ。 毒で弱った心筋が悲鳴を上げて、また発作が起こりかけていると判ったが、そこは最後のポーカーフェイスを取り繕って耐えた。 彼があの戸口を潜って出て行ったら本当に本当の別れだと、シクシクと痛む心臓を胸の上からそっと押さえる。 呼吸もできるだけ乱れないように浅く繰り返し、カカシが早く出て行ってくれることを祈った。 そうだ、いつもそう望んでいた。 気まぐれに窓から訪れて力尽くで抱かれた後も、恋人だと言われてアカデミーや庭の暗がりで抱かれた後も、そう望んだ。 カカシが居る前では泣けないから。 カカシが居る裡には苦しがれない。

「はっ あ、う」

 パタンと戸が閉じると同時に胸を掻き毟って体を折った。 苦しい。 さっきのように安らかには死ねないみたいだ。 自業自得というものだ。 カカシにあんな酷い仕打ちをしてしまったのだから。 心臓の拍動が徐々に弱まっていくのを感じ、体がチリチリと痺れ出す。 意識も白み、冷や汗と涙が噴き出した。 だが、ハッハッと弱々しく息をするだけで胸が引き攣り、激痛はいつまでも止まなかった。 イルカはのたうって苦しんだ。 脳内麻薬がやっと効きだし朦朧としてきて幾分体の痛みを感じなくなった頃には、もうグッタリとしてピクリとも動けなかった。 寒いな。 霞んでいく意識の底で、もうこのまま死ぬのだと思った時、寂しくて寂しくて、心底カカシの腕が恋しくなった。 さっきは幸せだったのに。 どうしてあのまま死なせてくれなかったのだろう。 自分の唯一で最後の我侭だった。 カカシには本当に悪いと思ったけれど、一つくらい願いを叶えて欲しかった。

「一つでいいの?」

 一つでいいです。

 耳元で聞こえる声を幻の為せる業と思い、もう声も出せないイルカは心で答えた。 指が口の中に突っ込まれてきて舌の下に何かを落とす。 コロコロした感触が不快でむずがると、暖かい何かが痺れた唇に押し当てられた。 何度も、何度も。 そしてイルカは再び蘇生の苦しみを味わった。

               ・・・

「くす…り?」
「そう」
「ど…して?」
「ここのところ、アンタの様子がおかしかったから、サクラに待機してもらっていたんです。 さっき連絡した薬が届いたところですよ。」
「死なせて」

 パーンと頬が張られたが衝撃だけで、まだ残っている痺れの所為かあまり痛みは感じなかった。

「…たい」
「嘘、今あんまり痛くないって思ったくせに」
「…」

 嘘…、この人、心が読めるのか? 幾ら上忍で里一番の業師でも、それは無いんじゃないのか?

   『愛してます』

 試しに心で言ってみる。

「俺も愛してます」

 う、嘘!

「はうっ」

 驚きと羞恥でまた心臓が発作を起こしかけ、もう1ミリも動かせないと思っていた体がくの字に折れて引き攣った。

「ほらほら、気を落ち着かせて」

 背を擦る手が優しかった。 嘘だ、この男、カカシじゃない?

「酷いなーイルカ先生、俺は鬼ですか?」
「だって」

 声を発するのがこれほど体力の要る作業だとは知らなかった。 だが息が切れて後が続かないイルカの思考を次から次へと読んで、カカシは会話を成立させていた。

「だいたいアンタは卑怯だよ。 早く出てけって念じるくせに、最後の最後で俺の腕の中で死にたいなんてさ」
「終った後だっていつも、早く出て行けって呪文みたいに繰り返してたじゃない。 俺だって傷付きますよ。」
「任務前には抱きたいですよ、そりゃあ。 最後かもって思うじゃない」
「アカデミーで事に至ったのは悪いと思ってましたよ? でもアンタも結構ノリノリだったし」
「はーいはい」
「あの時だって、もっと縋って泣いてくれたら優しくできたのに」
「殺してなんかいませんよ! 当たり前でしょう? 里内で私闘はご法度です。 まして殺人なんて! 二度とアンタの前に顔出すなって脅しただけですよ」
「もちろん、締めてやりましたよ! 唯で放免する訳ないでしょう!」
「あれは…俺の趣味です」
「ええ、これからも偶にはお付き合い願いたいですね」
「嘘々、イルカ先生結構感じて悦んでましたよ?」
「はーいはいはい」
「はい!」

 ハイは一回! と子供を叱る癖が思わず出たのに対してまで律儀に返事をするカカシに、イルカは完全に脱力した。

「え?」

 その歪んだ人格は、その能力の所為で形成されたんですね?

「歪んでて悪うございましたぁ」

 むぅっと剥れる顔が愛おしいと思った瞬間、カカシの顔が少し赤らんだような気がして目を見張ると、カカシはふいとそっぽを向いてしまった。 だから最後の質問をする。

「それはね、イルカ先生。 俺はこの通りでしょう? 人って内側と外側で全然違うのが普通なんですよ。 だのにアンタときたら中身も外身もまるっきり一緒だった。 この人ほんとにこれで大丈夫なの?って心配になってさ。 最初はそんなかんじ」

 ああ、とイルカは納得した。 ナルトのためか。

「そう、アンタに何かあったらヤバイって三代目からも言われてたし」

 なら今はもう心配要りませんよ。 アイツは強くなった。

「そう…そのはずなんですけどね」

 暫らくの間沈黙が降りた。 イルカは色々な事を思い出していた。 ナルトを通じて初めてカカシに会った。 中忍試験の時は身の程も弁えず口答えなんかして。 そして…初めて組み敷かれた晩、あの時のカカシは………

 あんまり覚えてないな…

「酷いなー、イルカ先生。 どうせ俺なんか眼中に無かったんだもんね。」

 覚えている事と言ったら、痛かったり痛かったり痛かったり…、痛かった。

「暴れるから…しょうがなく。 俺も余裕、無かったし…」

 余裕無かったのか…

 ふっと笑みが零れた。 なんでこんな事で笑えるのかおかしかった。 カカシの気持ちを聞いた今でも、あの時の記憶は、感じた気持ちは変わらない。 多分一生の傷だろう。 許せるとか受け入れるとか、そういう類のものでもない気がした。

「なんで、俺だったんですか?」

 掠れた声を無理をして出す。 神妙な顔をしてイルカの思考を読んでいたカカシが、きちんと正座をして寝ている自分の横に座って膝に手を置いて、それがまるで説教をされている子供の姿とダブルので、そんな時自分が出す声音を思わず使っていた。 言葉に音が乗るのとそうでないのとでは違う、とイルカは知っていたから。

「だって」
「だって?」
「アンタみたいに思い通りになんない人、初めてだったんだもの」

               ・・・

 イルカがふっとまた笑って、「なんですか、それ」理由になってないじゃないですか。 そう言ってそう思ったので、もう説明は止めた。 自分の行いや自分自身の事を人にこんなに説明したのは初めてだ。 まったく疲れる。 でもそうしなきゃこの人を失うと柄にも無く必死になってしまった。 けどでも、もういいみたいだ。 イルカは、自分ほど御し易い人間は居ないと思っているらしい。 自分を思い通りにするなんて赤子の手を捻るようなものだと、アナタなら簡単じゃないですかと、また笑う。 今までだってずっとそうだったじゃないですか、と。 要するに、この人は何にも判ってないんだと解った。 こんなんでよくアカデミー教師なんか勤まるもんだ。 でも、さっきの声にはやられちゃったけどね、と頭を掻く。

「で、どうします? 別れますか?」

 ぜんっぜん、これっぽっちも別れるつもりなんか無かったが一応言質を取るつもりで問う。 イルカの口から意思表示をさせておかないと安心できない。 またサッサと俺を置いて死んじまったりするかもしれない。 それだけは絶対ダメなんだからね、イルカ先生、と読心できないと判っている相手に呼びかける。

「…」

 イルカは眉を顰めて黙った。 黙っていても俺に思考を読まれると思っているのか、忘れているのか。 でも俺だって万能じゃないんだよ、イルカ先生。 具体的な絵柄や自分に向かってはっきり強い志向性のある言語化された思考なら読める、読めてしまう、という話なんであって、アンタの普段の迷路みたいな思考なんか読めやしませんて。 それに読んだところでそんな形而上的なヤツ、どう理解しろって言うんです? もっと具体的な絵とか言葉とかにしてほしい。 さっきだって、はっきり読めたのは「かかった!」という言語化された言葉だけで、あとは鏡の中で紅を引くイルカの唇とか、窓とか以外は、具体的な絵柄は殆ど読めなかった。 判っていたら、こんな不覚は取らなかった。 それくらい、イルカの方も混乱していたのかもしれないが…。 ああ、ほんっとーにアンタは御し難い。

「う…ったぃっ」
「イルカ先生?!」

 じっと待つこと数十秒、イルカは突然胸を押さえて苦しみ出した。 頭の中では、さっき自分が出て行った時の後姿がエンドレスで上映中だった。 その映像がジワーッと滲んでいく。 こちらの方が胸が痛くなった。

「大丈夫、どこへも行きませんよ」

 慌てて背中を擦りながら耳元で囁くと、イルカは汗の滲んだ顔で少しだけ頷いた。 閉じた黒い睫がしっとり濡れて震えている。 浅く肩で息をする姿も、肌蹴かかった肌襦袢一枚の胸元も晒された首筋も、自分の下で喘ぎ乱れる艶姿を彷彿とさせて下半身に直撃だった。 ああ、降参です! 俺にアンタを手放せる訳が無い。 結局この俺が、どうか別れないでください、俺のこと捨てないでと縋らなきゃあなんない訳ね。 今度こそアンタにアンタの口でアンタの意思で、「アナタが欲しい」と言って欲しかった。 ほんと、アンタはどうにも思い通りにならないよ。

 でも! アンタは誘導尋問には弱いんだよね!

「俺と一緒に居たい?」
「え、ええ」
「俺にこの先ずっと抱かれたい?」
「…」
「もうイルカ先生っ じゃあね、俺とこの先もセックスしてくれますか?」
「…はい」
「勝手に死んだりしないでね!」
「はい、すみません」
「俺は…、俺は、アナタを愛してもいいですか?」

 この質問は俺的に非常に大事だったのだが、イルカは相変わらずとんでもない勘違いをしてまた発作を起こしかけた。 やはりニトロ一錠では足りなかったかと、苦しがって暴れる体を押さえつけもう一錠舌下投与。 数秒で効いていきたようだったが、ニトロは3錠までときつくサクラに言われていたので後の一錠は保険に取っておかなければならないと思った。

「イルカ先生」

 さっきのイルカの声音をできるだけ思い出して真似てみる。 こういう事はコピーはできない。 でも、なんだか効果があったようで、イルカはホウと吐息を吐いて抱かれるままに体を弛緩させた。

「よく聞いてね、イルカ先生。 俺はね、今までアンタを愛してなかった訳じゃないんですよ。 でもね、ほんとの意味で愛してた訳でもない。 俺がアンタを本気で愛したら、アンタ潰れちゃうかもしれない。 でも俺、アンタを愛したい。」
「…」

 ぱっちりと見開いた瞳は何も映してはいなかった。 こんな時思考が読めないのは辛い。

「俺はアナタを愛してもいいですか?」
「は…い、んむっ」

 我慢できずに口を塞ぎ、体中を弄ってしまった。 3錠目を使わなければならなかったのは、サクラには絶対に秘密だ。

               ・・・

 カカシの言う、カカシの本気の愛というヤツはまず、一晩かけた魂を削るようなセックスで教えられた。 だって今までは帰らなきゃって思ってたもんですからね、ここまではできなかったんですよ、と嘯くカカシ。 体が回復してすぐだったので、かなり堪えた。 それから、今まで慇懃なほど丁寧で優しげだった態度は一変し、まるで暴君のようになった。 やだなぁイルカ先生、亭主関白と呼んでくださいよ、とこれまた嘯く。 そしてあからさまに焼き餅を焼き、嫉妬心を曝け出し、独占欲を前面に押し出してきた。 こいつに手を触れたら殺す、と言わんばかりの誰彼構わぬ威嚇のしようにイルカはほとほと困り果て、仕事に支障を来たさない程度に願います、となんとか約束させなければならなかった。 でも、一番変わったのは表情だった。

「アカデミーではダメです!」
「ええ〜ッ」

 資料室に連れ込まれ接吻けられて、そこまでは許したが事に及ばれそうになって拒むと、カカシは困ったような嬉しいような、なんとも微妙な顔付をした。

「前はヤラしてくれたじゃない」
「い・や・で・す!」
「もう〜〜、イルカ先生ったら〜」

 ほんとにアンタは思い通りにならないね、とクスクス笑う。 そんなかわいらしい顔、見たこともなかった。 逆らわなかったあの頃の方がずっと冷淡だったように思う。 カカシと対等になれるとは思っていないし、なれようはずもないのだが、こんなに嬉しそうにするのなら少し我を通してみようかなと思うほどだった。

「アナタの”思い通りにならない”っていうのは普通と逆じゃないですか?」
「普通がよく判りません」

 そう言ってまた接吻けてきたので話は終いになったが、弄ってくる手を払い除けて「続きは今夜」と言い添えると目に俄然やる気が点り、接吻けが濃くなった。 もう少しで「ここで抱いて」と言いそうになるほど貪られ喘がされて、「じゃあ今夜ね」と後ろ手に手を振りシレッと出て行くカカシを恨めしく見送る。 火の点った体を我が手で掻き抱き、これは任務前の処理なんだろうかと、未だカカシの愛に慣れない頭が知らず考えていた。


 処理とセックスの違いはまだ判らなかった。 いくら考えても判らないので、抱く側の人間に聞いてみることにした。 それはいい案だと思ったのだが…

「俺は処理で人を抱いたことが無いんで判りません」

 その夜、相変わらず窓から訪れたカカシは、一頻り睦んだ後でそう言い切った。 思わず目が点になる。

「なんですかぁ、その疑わしい目はぁ」

 だって、だってだって! じゃあアレはいったい何だったんだ? 最初の頃のアレは!

「セックス」

 またも言い切るカカシに、知らず腹筋が痙攣しだした。

「ふっ うくくくくっ あはははははっ」
「なーに笑ってんですかぁ」

 不服そうに頬を膨らませたカカシはアカデミーの低学年の子供。 顔はそんな無垢なのに、アナタときたら…

「判りました、アナタはただの助平なんですね!」
「酷ーい、イルカ先生」

 喋り方もかわいいと認めよう。 でもほら、アナタの手も唇も、そして何よりこの太くて硬いアナタ自身が如実に語る。 アンタが欲しい、欲しい、と。

「なんで…俺だったんですか?」

 それをまた埋め込まれ、確かにこの人は自分に欲情するのだと認めながらも、まだ納得できない最後の質問を繰り返すと、カカシは目を細めて宣った。

「俺、人をこんなに好きになった事今まで無いんで、判りません」
 
 思わず涙が零れた。 カカシはそれを唇で吸い、二度目の”魂が削れるようなセックス”を提案してきたので丁重に断ったが、却下された。










BACK / 携帯用脱出口