バヨリン

-Violin-




 随分空が高くなった。 もう秋だなぁと思う。 でも走ったりするとまだまだ暑い。
「ああ、また遅刻だ」
 片手に日常品や着替えの入った重い旅行鞄、片手に楽譜の入った大判の書類ケース、肩からは斜めにバイオリン・ケースが掛かっている。 走りづらい。
「オーディション、押しちゃったからなぁ」

 待っててくれるかな

 今日は生徒さんのお稽古の日だが、特別にイルカも楽しみにしている日だった。 木曜日。 今日はカカシさんが来る日。 他にもお稽古の日はあるけれど、木曜はカカシさんだけのために設けた日だった。 週の前半は、あちこちのオーケストラの面接やオーディションを受けるために旅から旅。 後半は生活のために近所の子供相手にお教室を開いていた。 木曜はずっと調整日で開けてあった。 オーディションが押すとその日のうちに帰れなかったりして生徒さんに迷惑をかけるのが嫌だったからだ。 でもある日ふらりと現れて、どうしてもと強引にイルカのバイオリン教室の生徒になったカカシのために、イルカは木曜を当てた。 もう一杯で他に日が無かった事もあるのだけれど、カカシさんは、生徒さんの中では唯一の大人。 子供と一緒ではやり辛い事もあるかな、とのイルカの配慮だった。 けれどもカカシさんは、ピアノの経験があるとかで譜面は不自由なく読めるし、筋も良くてどんどん上達し、今ではお稽古とは名ばかりの二人で二重奏などを楽しんだりする日となった。 アンサンブルが好きなくせにずっと一人だったイルカにとって、それは本当に特別な日。 早くどこかのオーケストラに雇ってもらいたいと頑張る週の前半が生活の中心だったが、カカシさんが来るようになってからはささやかな楽しみができ、イルカの一週間が木曜を中心に回り始めるのには時間は掛からなかった。 今も遠路からの帰り道を急いでいるところだ。

 駅からの道は少し上り坂で、腕時計をチラチラと覗きながら一生懸命走った。 はっはっと息が上がる。 イルカは少し扁桃腺と気管支が弱かった。 なんだかちょっと熱っぽいかも。 気をつけないと熱が出る。 2・3日前から咳も出るようになってきたし。 ああでも、カカシさんが待ってる。 カカシさんは細くて柔らかい銀色の髪に、碧い瞳と赤い瞳を持つ奇麗で不思議な人。 イルカは、彼と居る時間が楽しくて嬉しくて、宝石のように大事にしていた。

               ・・・

「ただいま! ごめんなさい、遅れました。 カカシさん、待ちましたか?」
 玄関の前には既にカカシさんが立っていた。 慌てて謝りながら鍵を開けて中へ一緒に入る。 入って直ぐの居間がイルカ自身のお稽古場兼生徒さんたちのお教室になっていた。
「いいえー」
 カカシさんは間延びした喋り方をする。
「オーディションが押しちゃって、前の日のうちに電車に乗れなかったんです。 すみません。」
「どうでした?」
「オーディションですか?」
 カカシさんは優しそうな顔で頷いた。 その顔に悪いな、と思いながらかぶりを振る。
「だめでした。」
「元気出して、他にもオケはいっぱいあるし」
「はい! 大丈夫です。 また来週から頑張ります!」
 空元気を出して笑い、お稽古しましょ、と準備をする。 せっかくカカシさんと居るのに、暗い雰囲気にはしたくない。 汗を拭いて着替えた方がいい事は判っていたが、待たせてしまったので言い出せなかった。 いや、一緒の時間が少しでも削れるのが自分で嫌だったのかもしれない。

               ・・・

「ありがとうございました」
「はい。 じゃあ、また来週」
 楽しい時間はあっという間に過ぎる。 本当は1時間なんだけれど、カカシさんと合奏をしていると楽しくて、気がつけばもう2時間以上経っていた。 もう外も暗い。 カカシさんはどこか違う町から態々電車で来てくれているので、あまり引き止めることはできなかった。
「カカシさん、何か気になる事でもあるんですか? 今日はなんかずっとそわそわしてるし」
 楽器を片付けている後ろ姿に声を掛けると、その肩がビクリと大きく揺れた。
「カカシさん?」
「あの…、あのね、イルカ先生」
「はい?」
「俺ね、今日ね」
 どことなくもじもじとして、カカシさんは口篭った。 カカシさんはいつものんびりしていて喋り方もおっとりしているけれど、態度はとても自信に満ちてて自分とは正反対のタイプの人だなと、イルカはいつも羨ましかった。 だけれども今日のカカシさんは何か変だ。
「今日、何かありましたっけ?」
「実は、俺の誕生日なんです。」
「え?」
 吃驚した。
「ええ?! 知りませんでした、俺。 言ってくだされば何か用意したのに」
「いいえいいえ、とんでもない! そんなのいいんです。 催促するみたいな言い方しちゃってすみません。」
「せめてケーキでもあればよかったんだけど、俺ずっと留守してたし」
「いいんです、イルカ先生。 でもひとつだけして欲しいことが…」
「はい、はい! 何ですか? 言ってください、俺でできることならなんでも!」
「ほんと?」
「ええ!」
「イルカ先生、俺」
 カカシさんは奇麗に仕舞った楽器ケースを大事そうにそっと椅子の上に置くと、両手をにぎにぎしながらイルカに向き直った。
「俺に」
 カカシさんは自分より少しだけ背が高い。 ちょっと見上げる位置にあるカカシさんの顔が、なんだかちょっと赤い気がする。 どうしたんだろう?
「いえ、俺が、あの」
「はい、何ですか?」
 何をすれば…、と言い掛けてイルカは言えなかった。

 目の前は銀色でいっぱいになった。
 肩をやんわり掴まれた。
 唇が

「カ…カシ、さん…」
 ゆっくり離れていくカカシさんの顔をぼーっと見つめながら名前を呼んだ。
「ごめんなさい、イルカ先生。 でも俺、ずっとずーっとあなたが好きで、それで…」
 今日は誕生日だから、ちょっと、ちょっとだけいつもより欲張りしてもいいかなって、我侭言っても許されるかなって、とカカシはしどろもどろに言い募った。
「あの…、怒った? イルカ先生」
 ポカーンとどのくらいその顔を見つめていたのだろう。 心配そうな声と顔で、カカシさんがイルカの顔を覗く。 イルカは慌てて首をブンブン横に振った。 一瞬頭がクラリとなるくらい。 実際よろけてしまって、カカシさんが慌ててまた肩を掴まえてくれる。
「だいじょうぶ?」
 コクコクっと頷くと、カカシさんはにっこり笑った。
「よかったー」
 眉尻を下げて笑うカカシさんの顔は、なんだか脱力した畑の案山子みたいだった。 そのまままたドサクサに紛れて抱き締められた。 ぎゅっと胸に仕舞われると、カカシさんの胸が意外と広い事が判る。 ほっそりしてるんだけど。
「俺、清水の舞台から落っこちるつもりでしたよー」
「と、飛び降りる、じゃないですか?」
 カカシさんは時々日本語がおかしい。
「でもカカシさん、俺、男って判ってますよね?」
「もちろんですー」
「あなたも、男、ですよね?」
「…イルカ先生、嫌?」
 ぱっと胸を離されて、悲しそうな顔がすぐに覗きこんでくる。 眉が寄っていてもの凄く情け無さそうだった。
「いいえ、いいえ! でも」
「でも?」
 まだ眉尻が下がってる。
「でも、あの、男の俺が、その、す、好き、なんですか?」
 やっと聞けた。
 だって信じられないんだもの。
「はい、そうです。 好きなんです。 もうずっとずっと好きでした。 あなたのお教室に入れてもらったのだって、できるだけあなたの側に居たくって」
「そう…だったんですか」
 それはちょっとショックだ。 純粋にバイオリンを弾きたかったのだと信じていた。 バイオリンしか取り得の無いイルカは、楽団員になる夢を見ながらなかなか成れず、カカシとの合奏を楽しんでいたから。 ガックリきたのが顔に出たのか、カカシさんは慌てて両手をイルカの前でパタパタ振った。
「違うんです、バヨリンも大好きですよ? でもね俺、イルカ先生の方が数十倍、いえ数千倍」
 バイオリンと言わないカカシさんがおかしい。 慌てて言い訳するカカシさんがかわいい。 カカシさんは、自分のはヘタレているからバヨリンだと、もう充分イルカと重奏できるくらい上手いのにそんな事を言ってはお稽古に来ていたのだ。 クスクスと笑っているとカカシさんは、もー、と言って膨れっ面をした。
「ね、イルカ先生。 俺、イルカ先生が好きです。 男で俺にバイオリンを教えてくれて優しくてかわいいイルカ先生が大好き。 ね、もっかいキスしてもいい?」
「え」
 さっきもいきなりだったけど、カカシさんはイルカの答えを待たない。 聞いた次の瞬間にはもう顔が近付いていた。
「ま、待って! 待ってください」
「イルカ先生〜〜」
 両手でカカシさんの顔を押さえると、泣きそうにしてる。 でも、勢いに流されたなんて後で思われるのは嫌だ。
「俺、俺の気持ち、聞いてからにしてください。」
「……はい」
 しゅんとなったカカシさんは、イルカから手を離して廊下に立たされた生徒みたいな顔でイルカの言葉を待ってくれた。
「俺、カカシさんのこと」
「俺! あなたが俺に応えられないって言っても、俺は、俺の気持ちは!」
「ストップストップ!」
 もう、人の話は黙って聞く。
「俺、応えられないなんて言ってないじゃないですか」
「でも俺は、絶対……… え?」
「俺もあなたが好きです、カカシさん」
「………え…、ええーーーーっ!!」
「お誕生日おめでとうございます」
 こっちからチュッと軽く触れるだけのキスをした。
「うわっ うわーーっ」
 カカシさんの目が泳ぎ出した。
「カ、カカシさん、大丈夫ですか?」
「やった、やった、やったやったやっっったーーーっ!!」
 万歳三唱しているカカシさんに吃驚してイルカが固まっていると、ぐあしっと抱き締められ、むちゅーっとキスされた。
「嬉しい、イルカ先生、夢見たい、嬉しいよ〜」
「そんな、泣かなくたって」
「誕生日、ばんざーーい!」
 チュッチュッと顔中にキスの雨が降ってくる。
「キス、んんちゅっ キスしても、ウチュッ いいですか」
「し、してます、ん、もうしてま…、んん」
 なんだか一生分のキスをしたような気がする。
 頭がクラーっとしてきて、顔や首筋がカッカしてきた。
 あれ?
 熱、出てるかも
 ジタバタしていたイルカが急におとなしくなったので、カカシさんは不安になったのかまた恐る恐る顔を覗きこんできた。 これってこの人の癖なのかな。
「もしかして、今日が俺の誕生日だから仕方なくじゃないよね? 明日になったらもうキスしないなんて言わないよね? ね?」
「言いませんよ!」
 全くもう、何言い出すんだか。
「それに、明日じゃなくって今度会えるのは来週じゃないですか」
「え〜〜っ そんなの俺待てないもん。 ね? 今日泊まってもいい?」
「…」
「イルカ先生?」
「それって」
「お・と・ま・りv」
「ダ、ダメですー!!」
 そう言えばなんだかカカシさんの前が硬くなってる気がする。
 カァーっと顔が熱くなったのはきっと熱の所為だ。
 ちょっと怖くなったイルカだった。



 さて、カカシとイルカの明日はどっち?





カカシ先生お誕生日おめでとう企画でtopに上げていたものです。

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