ヴォカリーズ

- Vocalise -


5


「私が納得できないのは、アナタがあの時イルカをただで返してしまったことです」
「だから、それしかできなかったと今説明しただろう」

 うんざりしたように瀬里は顔を顰めた。

「カカシは外でギンギンに殺気を放って威嚇しまくりだった。 イルカを一人で私の元へ寄越した、という時点で、既に私が何かしようとしても問題ないとヤツは判断したのだろうし、それは正しい。 これは別に自分の力を卑下している訳でもなければ、カカシを過大評価している訳でもないよ。」

 しっかり卑下しているじゃないか、と内心罵りつつも私は食い下がった。

「ですが、イルカはアナタの手の内にあったんですよ? 殺さなければ利用価値が有ると言ったのはアナタではないですか。 何故人質に取ってカカシを牽制しなかったんですか? さっきから聞いていれば、まるで殺すかそのまま返すか、それしか選択肢がないかのように聞こえます。」
「いや、懐柔する、という手もある。 実際、私は日々そのために費やしたとも言えるし、あの時も一生懸命勧誘したんだぞ? 振られてしまったがな。」
「懐柔などと! イルカに寝返れとでも言ったのですか?」
「そうだよ」
「バカな!」

 有り得ない。 忍だぞ? 寝返るような忍を信用して懐に招き入れる里がどこにある?

 瀬里はイルカの口からカカシの名を聞かされ、慌てて身元を洗った。 痕跡は奇麗に消され、仕事の質の良さは認めない訳にはいかなかったようだが、驚いた事に木の葉の里でカカシとイルカの仲を知らない者は居なかった。 今はどうか知らないが、その時のカカシにイルカをどう守ろうかというビジョンがあったかどうかは怪しいと私は思う。 きっと遊び半分でイルカをモノにしたに違いない。 そうでなければ何故イルカは逃げたのだ? カカシに口説かれて落とされて付き合うようになったのだという事は周知の事実で、木の葉の誰もが口を揃えて言ったものだ。 イルカは騙されて悪い相手に捕まった、先は知れていると思っていた、と。

「男慣れした身体だった。 なし崩しだったがすぐに私との生活にも馴染んだ。 だが心の方はどこまでも頑なな一面があって、その向こう側だけはどうしても覗けなかった。 誰かに酷い体験でもさせられたのだろうか、とまずはカカシを疑った。 だってそうだろう? ヤツから逃げてきたと言っていたのだ。 だからそこにイルカを懐柔する余地が有ると思った。 もし万が一彼が彼の意思でこちら側に来るような事があったとしたら、その時のカカシの反応が見物だな! 想像もできないが、イルカごと私達を滅ぼし尽くすか、或いはイルカの言いなりになるか、こればかりはその時になってみないと判らない。 カカシ自身でさえ判らないのではないかと私は思うよ。 まぁでも、そんな事はやはり有り得ないと、昨日イルカに会って判った。 再確認させられた、と言うべきかな。」

 今、あの二人の間には確固とした絆ができあがっているという事なのだろうか。 あの頃は無かった物が今は有り、代わりに付け入る隙は無くなったと、そう言っているのだろうか。

「そんな無駄な事に時間を費やさずとも、さっさと力尽くで拉致監禁でもしてしまえばよかったのに!」
「ああ、それはできない」
「だから、何故ですか?!」
「イルカに限っては選択肢は2つ。 殺すか、生かして返すか、そのどちらかだ。 殺すメリットが無いと判っている以上、返すしかない。 彼が彼の意思でこちらに来てくれれば別だが、今オマエも言ったようにそれは有り得ない。 真面目にそれをしてしまった私は、まぁマヌケ極まりないな」
「…どうして拉致できないのですか? アイツは実は結構強いんですか?」
「いいや、普通の中忍だな。 オマエと同程度じゃないかな」
「ならば何故?」
「拉致れば彼はその場で死ぬ。 そうなればカカシにとっては私達が彼を殺したのと同義だろう。 だからできないんだよ」
「自害できないようにする事など簡単ではないですか」
「イルカは別なんだよ」
「判りません」
「オマエは知らなくていい。 とにかく、イルカに手は出すな。」
「カカシに選ばれた、ただそれだけで何からも守られているような幸運なだけのボンクラ中忍に、なぜそんなに入れ込むんですか? 私には理解できない!」
「イルカが幸運?」

 くっくっと、瀬里は肩を揺すって笑い出した。 顔を片手で覆い身体を二つに折って一頻り笑い続けると、私に向かってぱたぱたと手を振り何か言いかけたが、また笑い出してしまいその後は話にならなかった。 結局何が言いたかったのか、どうして笑ったのか理由は判らず仕舞いだった。 だから私は、自分でそれを探らねばならなくなったのだ。 それをしなければ奪い返せない。 アイツの手から。

               ・・・

 暫らくすると、イルカはパカリと瞼を開けた。 そして驚いたようにその黒い目を見開いた。 カカシの様子を窺うと、ウツラウツラと船を漕いでいる。 昨夜から一睡もしていないのだろうか。 信じられない好機が訪れていた。

『セリさんは、ご無事ですか?』

 元々声の出ないであろう口をパクパクさせて何か言うので、その唇を読む。

『要らぬ心配だ』
『あなたも早く行ってください』
『余計なお世話だ』

 あの頃とまったく変わらぬイルカ。 否、あの頃が、木の葉に居る時と変わらなかったのか。

『オマエを攫う』
『あの、俺歩けませんけど』
『残念だったな、私は傀儡を使う』

 イルカは然も感心したように頷き口も「なーる」と形作ってぽんっと手を打った。

『静かにしろ』
『でも…傀儡なら俺が起きてる必要なかったんじゃ』
『黙っていろ』

 言いながら首を傾げるイルカの首筋に爪を宛がう。 そうしてから太腿のホルダーの千本を抜き取ろうと片足を立てた所で、ヒタリと自分の首筋に冷たい感触が押し当てられた。

「すみませんね、うっかり寝てしまいました」

 背筋が戦慄いた。 カカシが起きた気配も無ければ動いた気配も無かった。 気付いた時にはひやりと冷たい気がカカシの身体から発せられ、纏いつくように自分の身を包んでいた。 恐ろしい。 だが私の爪もイルカの首筋に当ったままだった。 このまま犬死はできない。 悪足掻きでもしないよりはマシ、というのが私の持論。

「退いてもらおう。 イルカが死ぬぞ。」
「その前にオマエが死ぬよ」
「ではイルカと心中だな」
「そんなことさせないよ。 大丈夫、充分時間はあるから。 心配しなくていいよ、オマエは一人で死ねる。」
「だが声くらい奪えるぞ」
「ならオマエを殺した後、あの上忍を道連れにしてあげる。 だからそれで我慢してよ。」
「!」

 思わず手が震えた。 ここでイルカの首から一寸たりとも指先を外す訳にはいかないのに、動揺が制御できない。 ここまでか。 やはり自分には無理だったか、と諦めが侵食していくのを感じていたその時、カカシの声音が変わった。

「イルカ先生」

 囁くようなその声に焦りが確かに混じっていた。

「イルカ先生、落ち着いて。 それを元に戻して」

 懇願している? 泣きそうな響きに驚き、だが背後のカカシの顔を振り返ることもできずに硬直していると、尚もその訴えは続いた。

「お願い、イルカ先生。 大丈夫だから、俺は絶対大丈夫だから」

 ”俺”? イルカでなく、カカシ? はっとしてイルカを見ると、その真っ黒い瞳が涙で潤み、調度一滴ほろりと頬を伝って流れるところだった。

               ・・・

 自分の意思で自由にできるのは、「外す」・「戻す」それだけだった。 一旦外した後は、最期の瞬間がいつ訪れるのか、自分でも判らない。 最期の最期になって迷わないためだった。 しかも暗示がかかっているため、「外す」のはほぼ自動的に行なわれてしまう。 発動する前に「戻せれば」、何事もない。 それは自分の「覚悟」だった。 ただそれだけのつもりだった。


「イルカ先生、お願いだから」

 カカシが泣いている。 実際に涙を流している訳ではなかったが、そう思った。

「おい、オマエッ 早く手を離せッ 命だけは助けてやる。 だからサッサと去れッ」
「オマエが先に退けッ」

 二人は譲ろうとしなかった。 くノ一で多分自分と同じ中忍だろうに、凄いガッツだなぁと場違いな感慨まで覚えていた。 彼女の顔は知らなかったが、その視線には覚えがあった。 あの里でいつも自分に纏わりついていた視線だ。 この人のモノだったのか。 ならセリの部下ということになる。 殺したくない、と強く思った。 ここで発動すれば三人とも死ぬかもしれない。 でも、自分でもどうにもならない。

「イルカ先生っ!」

 カカシがまた悲痛な声を上げた。 そして、一筋の涙が青い右目からはらりと流れた。 その瞬間、カカシのクナイを払い除け、そのくノ一は三歩ほど後方へ飛び退った。 彼女の首筋には赤い筋が走っていたが、血は流れていなかった。 自分の首にもチクリとも痛みは無い。 気がつくと、カカシに掻き抱かれ、伝わってくるカカシの震えを感じていた。

「戻して、イルカ先生、早く戻して」
「もう…戻しました」
「う…」

 しっかりとイルカの身体を抱き締めると、既に彼女の存在を眼中から外してしまったカカシが肩口に顔を埋めて嗚咽する。 仕方なく自分で振り返り様子を窺うと、彼女は呆然としたように立ち尽くしてこちらを凝視していた。

「わかったぞ…」

 搾り出すような低い声を出しながら、彼女は更に一歩後退った。

「オマエの身体に仕掛けがあるんだな? それが全ての理由だったんだな?」

 幾分青褪めた顔でぶつぶつと呟くように喋り続け、尚も後退を続けて窓の縁まで辿り着くと、彼女はカッと目を見開いてワナワナと震え出した。

「オマエは…間違っている!」

 そしてイルカをぎりっと睨むと、怒り狂ったように叫び始めた。

「オマエは…、オマエは間違っている。 それの所為で全てが狂ったと、今でも解っていないんだ。 2年前、オマエはどうしてその男から逃げ出した? その男がオマエから距離を取るのを感じたからだろう? 捨てられるのが恐くてオマエが先に捨てたんだ。 卑怯なヤツッ…! その男がそれの所為でオマエにどう対応したらいいのか悩んでいるのも、もしかして知っていたのではないのか? オマエが勝手にそんなモノを作ったくせに、その男の為だと傲慢にも考えていたのだろう! なんてエゴイストなんだ! そんな痴話喧嘩は自分の里でやれっ 他人の里へ来て他人を巻き込むなっ!」

 叫ぶ彼女が美しいと、イルカはただ見惚れていた。

               ・・・

「怒られちゃった…」

 くノ一が姿を消してからも暫らくの間、カカシはじっと動かずに唯々自分を抱き締めて離さなかった。

「アイツ、生かしといてやって正解だった。 俺の言いたかった事全部言ってってくれた。」

 やっと口を利いたかと思えば随分と不貞腐れた声音で、イルカを非難するような恨めしげな様子だった。

「アイツ、あの里でアナタを見張ってたヤツでしょう?」
「ええ、多分」
「昨日の昼間、公衆の面前で俺に二人分のお膳をぶっ掛けやがったんですよ」

 昨日…セリが会いに来た時のことか。

「ああ、それで」
「ったく、人目がなきゃ瞬殺してあなたの所に駆け付けたのに」
「よく我慢しましたね」
「まぁ一応ね。 アンタに毒されて脳味噌湧いてたあの上忍と違って、アイツは充分アンタを殺れたはずだし、借りは返さないとって思ったもんですからね。」
「そうですね…」
「それにさ、やっとアンタをウンと言わせて、せっかく二人で休み取ってハネムーンに来てるのにさ」
「ハネムーンて」
「俺はそのつもりなの! だから騒ぎ起こしてここに居られなくなるのは嫌だったんですよ」
「いい所ですもんねぇ」
「2年半ぶりのアンタを堪能できなくなっちゃうのも真っ平御免だったし」
「2年半ぶりじゃないでしょう? あの里で散々抱いたくせに」
「あんなのは数に入れないの! 愛あるセックスでなきゃね!」
「アナタが言いますか」

 呆れて溜息混じりに笑うと、それまで肩口でぶつぶつ喋っていたカカシは身体を少しだけ離し、物凄く真面目な顔をしてイルカに向き合ってきた。

「アイツの言う通りだよ、イルカ先生。 俺がどんなに悩んで悲しんだか、アンタにはこれっぽっちも解んないだ。」

 それで一人で勝手に逃げちゃったんだ、とまたヒシと抱きつくと、メソメソと泣いて見せてくれた。

「ごめんなさい… 俺、本当に何にも判ってなかった。 ごめんなさい」

 その銀の髪を撫でながら「ごめんなさい」と繰り返す。 本当に気付かなかった。 カカシが自分の「覚悟」について気付いている事にも気付かなかったし、それにショックを受けていた事も気付けなかった。 ただ、態度の変わったカカシに途惑い、悲しみ、理由も判らないまま言葉で問うこともせず逃げたのは本当だ。 でも、と思う。 あの時向き合わなかったのは自分ばかりではない。 カカシもはっきり口にすることを避けていた。 お互い、無言のプレッシャーを掛け合っていたんだなぁと、今頃になって他人の口から言われて初めて解ったのだ。 本当に、怪我の巧妙とはこの事だと、あの娘に感謝する。 これからは彼女を見習って、少しはポジティブに生きなくっちゃな、と考えていたと言うのに、いつの間にかイルカの顔を見上げて心底恨めしげにしかめっ面をしていたカカシが、またピ~と泣き出した。

「イルカ先生、他のことばっか考えてる! ぜんっぜん俺のことなんか頭にないんだ~っ」
「そ、そんなことありませんよ、ちゃんとカカシさんとの未来を考えてたんですってば」
「信じられません~」

 どこでどう学んだのか、2年前はあんなにエエカッコシイだったカカシは、今は甘えたり拗ねたり駄々を捏ねてみたりと忙しい。 そうやって自分の気持ちを伝えてくれる。 そして優しく愛してくれる。 セリがそうだったように。

「ごめんなさい、カカシさん。 大好きですから、ね? 機嫌直してくださいね」

 だから自分も、言葉にしなくっちゃなぁ、と思ったイルカだった。

               ・・・

「おっ 遅かったな、心配したぞ」
「嘘おっしゃいっ」

 瀬里が開口一番にイルカの事を問わなかったことで、多少気分が上向いた。

「で、イルカ、苛められてなかったか?」

 だが、せっかく上向いた気分はすぐ急降下させられた。

「ええええ、苛められてましたとも! もう、これでもかってくらい閨で泣かされてアンアン言わされて、凄かったですよ。 アナタの所為でお仕置きプレイですよ」
「はぁ…そうか」

 なにが、はぁそうか、だ!

「朝、発熱はしてるわ、手首は痣だらけだわ」
「手首に手形?」
「そうです」
「一個?」
「いいえ、重なるように幾つも幾つも」
「ふーん」
「何ですか?」
「べっつに~」

 数が問題なのか? 大概、おかしな人だ。 何か一人で思い出し笑いをしている様子の上司にうんざりする。 こっちは死ぬような思いしてきたってのに。 だが瀬里は、憤慨する私の頭を突然よしよしと撫で付けてきた。

「よく無事で戻ってきたな。 あんな無茶して…あんまり心配させるなよ。」
「!」

 しかもどこか褒める口調でそんな事を言われ、思わず赤面している自分を感じて尚焦る。

「あ、アイツ、めちゃくちゃ酷いヤツです。 瀬里さまももういい加減あんなヤツのこと引き摺るの、止めてくださいね」
「はいはい」
「もうっ 子供じゃないんですから! 頭撫でるの止めてくださいっ」
「まぁまぁ」

 いきり立つ私を軽くいなしながら尚髪を撫で付けようとする瀬里の目が、きゅっと細く眇められた。 極最近どこかで見た覚えがある目だと思った。 だが、何か癪に障ったので思い出さないことにして、私はふんっとそっぽを向いたのだった。

               ・・・

 まったく、とんでもない無茶をして…。 イルカの真似でもされたら堪らないと話さなかったのが裏目に出たかと、溜息を吐く。 まぁ元々物凄いポジティブ・シンキングの彼女には要らぬ心配だったのだ。 おまけに、イルカに説教まで垂れてくるとは! 何回頭を撫でてやっても足りないくらいだ、と不貞腐れる顔を愛おしんだ。
 イルカのかわいさは、イルカを抱いた事がある者でなければ解らないだろうな、と瀬里は思っていた。 別の意味でかわいいかつての教え子で今もかわいい部下の彼女に解らせるのは難しい。 イルカがカカシの名を口走ったのは最初の一回だけで、後はずっと2年もの間、この腕の中で自分の名を呼びながら昇り詰めるイルカを味わったのだ。 身体ももちろん具合が好かったが、あのかわいさを一回でも味わってしまったらもう後へは戻れない。 それほどかわいかった。 それに加えてあのオトボケさ加減と哀しい程の潔さだ。 それらが美徳ではないと解ってはいるが、愛さずにはいられなかった。 「それは唯の庇護欲だ」と、また彼女に言われそうだと一人笑う。 本当にそうかもしれない。 あの潔さに拒まれ行き場の無くなった庇護欲を愛情と摩り替えて、自分を誤魔化していただけかもしれない。 でも、愛情なんて所詮、そんなモノではないか? あのカカシにしたって、ただ癒しが欲しくてイルカを手元に置いているだけかもしれない。 自分だって癒しは欲しい。 イルカはそばに居るだけで最高に癒される。 「癒しが欲しいなら遊郭へ行け」とまた彼女の声がする。 そうだよ、その方が特定の個人を作るよりずっとリスクも少なく後腐れもなくお手軽でいいに決まってる。 でも…

「結局、イルカのどこがイイかなんて、言葉では説明できないな」

 結論はそこに辿り着くばかりだ。 そこら辺の所を酒でも酌み交わしながらあのカカシと話せたら、さぞや楽しかろう、と有り得ぬ想いに囚われた。 そんな時代が来ればいいと、見果てぬ夢を見た。












BACK / 携帯用脱出口