休暇
樒
「ごめんやす」
と、この亭の表の戸が叩かれたのは月が既に中天に懸かった頃だった。 女将は若々しくはあったが恐らく、優に六十は越えているだろうと思われる、それ相応の落ち着きと貫禄があった。
「この度は、当旅館にご宿泊いただきまして、ありがとうございます。」
「これは態々どうも」
カカシは一人居間の方で寛いでいた。 イルカは襖一枚隔てた隣の寝間で眠っている。 明日は帰らなければならなかった。 鳥が先程来たところだ。
「あの、お連れ様は?」
「隣で寝ています」
朝の仲居といい、この宿の者は連れの姿が見えないといつもこんな風に気にするのだろうか。
「どこかお具合でも?」
「いえ、疲れて寝ているだけですから」
お気遣いなく、と女将を見遣ると、彼女は少し逡巡した後ようやっと決心を決めたというように屈めていた姿勢を真っ直ぐに正し、カカシに視線を併せた。
「不躾なお願いや重々承知の上で重ねてお願いいたします。 お連れはんのお顔をちょっとだけ、拝見させていただいてもよろしゅうおすか?」
「確かに不躾ですね」
カカシは苦笑した。 寝ている客の顔を見たいと言う。 訳あり顔が必死だった。 だが、ウチのイルカの顔は安くはないのだ。
「ついさっきまでかわいがっていましてね、そんな艶っぽい顔、他人には見せられないんですよ」
もったいなくてね、とカカシは嘯いた。 その露骨な言いように、だが女将は怯まなかった。 凡そ自分達の関係を承知した上での物言いなのだろう。
「別に、畑様のかわいいお人をどうこうしよう思うてる訳やおへんのんどすえ。 ただお顔をちょっとだけ見せていただいて、確かめたいだけなんどす。」
「確かめる? 何をです?」
「ウチの命の恩人はんの息子さん、いえ、お孫さんやないかて…」
「命の恩人?」
この宿場は、今はこんなに盛っているがその昔はたいそう寂れた町だったと、女将は話し出した。 温泉は昔からあり、湯量も効能も確かで湯治にはうってつけの自然豊かで静かな佇まいなども他に決して引けは取らなかったが、近隣の森に女を喰らう妖魔が出没したため村人さえ逃げ出す、死んでゆく町だったと、女将の声は低く落ちた。
「ウチの姉が前の年の人身御供に差し出された後、他の年頃の村娘が次々村を出奔しはってまいましてなぁ、その年はウチしか残っておりまへんどした。 ウチはまだ十にも満たない子供やった。 訳も判らん子ぉに、親達はいいべべ着せていいとこ行こなぁて、かわいいお嫁さんやぁてウチを喜ばせてその気にさせて、妖魔が今日来るかぁ明日来るかぁて、びくびくして待っとったんのどす。 そしたらある夜にそのお人らが来はった。」
「人ら?」
「へぇ、お二人連れどした。 丁度畑様と海野様みたいに。」
微笑む女将の顔が儚げに行燈の光に揺れる。
「お一人は海野様そっくりおした。 黒髪で黒目ぇで。 海野様を玄関でお迎えさせていただいた時、ウチ腰抜かしましたわ。 あんまりそっくりやよし。」
「もう、一人は?」
「片腕の大きな男の方どした。」
「片腕?」
「へぇ、背ぇがこう高ぉて肩幅がこぉんな広おしてなぁ、髪は白くて所々に灰色の房がある不思議な髪型のお人どした。 そのお方の傷の治療にここの湯がいいと聞き及んで来たぁ言うてはりました。 右腕が肩のちょっと先からすっぱりのうなっておいやして、着物の袖がふらふらと旗のようにはためいて、ウチ子供やったもんやから、おっちゃん腕どないしはったん、て聞いてしまって親にぎょうさん怒られましたわ。」
「…」
その風貌を聞いただけで思い浮かぶ二人組みが居る。 実際には自分達は一度も会ったことのないその二人の話は、伝聞として其処此処で聞かされることが少なくなかった。 特にイルカの顔を見て、彼らは一様に驚くのだ、生き写しだと。 その所為もあってかまるで見た事があるかのようにその姿さえ思い浮かぶ始末だった。 イルカがその度に複雑な思いをするのが判っていたので、カカシは思わず隣のイルカの気配を探った。 イルカは起きている。 そしてこの話を聞いている。 正直聞かせたくなくて、ここで女将を追い返してしまおうかと、真剣に考えたほどだ。 だが、カカシは思い止まった。 女将が、黒髪の方がイルカの祖父なら、自分はやっと肩の荷が下ろせると涙ぐんだからだ。
「その時期はお客そのものが珍しいて、ウチは何も知らんと、お二人と仲よう遊んでもらったりして、つい妖魔のお嫁はんになるんやでぇて、漏らしてしまったんどす。 そしたらその夜にお二人がウチの親の所に来はってなぁ、自分達に任せてみないかぁて…。 そのまま出てゆかれました。」
「戻って…来なかったんですか?」
「へぇ」
「でも、妖魔騒ぎは収まったんですね?」
「そうどす」
だから、イルカがその時の黒髪の男の方の子孫なら、あの二人は自分のために死んだりしなかった、生きていたんだと思えるからと、自分の命の恩人にやっと恩が返せるからと、女将はまた深々と頭を下げた。 イルカは確かにその男の子孫だが、五代後の曾々々孫なのだと、説明してやりたかったができようはずもなかった。
「一目でいいんどす。 きっとそれで判りますから」
「判りました」
カカシは立ち上がって寝間との間の襖を半間ほど引き明け、自分が先に立って部屋に入った。 イルカは全裸の身体に薄掛け一枚を掛けて、艶かしく両肩を晒していた。 顔はうつ伏せて枕に埋めている。 その顎を取り、上向かせる。 うん、と微かに声を上げたが、イルカは目を開くような真似はしなかった。
「どうですか?」
「…はい」
女将は一つ頷くと、はらりと涙を零した。
・・・
イルカを背負い、暁闇の中を飛ぶ。
「もうあの宿には行けませんね」
後ろからぼそりと掠れた声がかけられた。 首に縋る手にちょっと力が篭る。 首筋に吐息が掛かる。 それだけでまた身体がざわめいた。
女将が亭を退出した後、泣くイルカを引き起こし足を開かせ、朝まで抱き倒した。 まだ感触が去らない。 イルカの喘ぎ声。 悶える身体。 熱いアナル。 抱いて抱いて、鳴かせて泣かせて。 それでも一言も拒絶の言葉を吐かないイルカに、カカシは有らん限りの精と情を注ぎ込み、接吻け、貪った。

自分にできるのはそれだけだった。 イルカの哀しみはイルカの哀しみ。 イルカの苦しみはイルカの苦しみ。 どんなに共に居ようとも、他人の哀しみや苦しみを分け合い共に背負ってやることなどできはしないと、イルカと居るようになって悟った。 分け合えるのは体温だけ、与え合えるのは言葉だけだ。
「そうですね、行く度に只っていうのも居心地悪いですしね」
答えると、イルカは肩口に顔を押し付けて少し笑ったようだった。
「俺、結構、気に入ったんだけどな」
「俺もですよ」
ふふ、とイルカがまた笑うので、自分も笑った。
休暇はお終いだ。
明日からは木の葉。
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