嵐の夜に


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 その男は嵐の夜に訪れた。


 ヨウスケは、妻と死別した後も妻の実家のあるこの田舎の温泉町に止まり、小さな軽食店を営んでいた。 だが、ほとんど人が来ず開店休業状態だったので、普段は義理の母の家の農作業を手伝ったり、自宅の痩せた土地で無農薬野菜を細々と作っては近所の旅館などに卸して一人身の生計を立てていた。 店は、気が付けばこの地の気の置けない友人達の溜まり場のようになっており、余った野菜で作った軽食やコーヒーなどを振舞っては皆で楽しく過ごして、それなりに楽しい毎日だった。 だが、やはり人肌が恋しい夜もある。 それはそんな夜だった。

 夕方から一帯に台風による暴風雨警報が発令されていた。 こんな日は、さすがに誰も尋ねてこない。 ヨウスケの店は町から随分離れた小高い丘の上にあった。

「すみません」

 突然玄関ドアが開き、男が一人入ってきた。 ハイキング・スタイルの男は頭からずぶ濡れで、体中から雫をぽたぽたと垂らしていた。 観光客だろうか。 この辺では見ない顔だった。

「ちょっと道に迷っちゃって、雨も酷いし、暫らく雨宿りをお願いしてもよろしいでしょうか?」

 礼儀正しくそう聞かれ、ヨウスケは吃驚しながらも慌てて頷きタオルを用意した。

「たいへんだったでしょう、こんな雨の中。 これ使ってください。」
「ありがとうございます」

 タオルで体を拭き拭き、男は不思議そうに店の中を見回しながら勧められた椅子に座った。

「ここは…いったい何の店なんですか?」
「あ、いやー」

 ヨウスケは頭を掻いた。 何の店と言われてはっきりした答えが出せない。

「一応軽食屋なんですが、人が来なくて。 普段は野菜の即売所兼休憩所みたいな感じなんです。」
「ほう」
「何か作りましょうか?」
「いいんですか? 実は腹ペコで…」

 そう言ったところで男は盛大にくしゃみをした。

「うう、寒い」
「よかったら、風呂に入ってきてください。 近所から温泉が引いてあっていつでも入れるようにしてあるんですよ」
「や、何から何まですみませんね。 でも寒くてしょうがないのでお言葉に甘えさせていただきます。」
「なら俺はその間に何か軽い物を作っておきますね」

 男に風呂の場所を教え、着替えを出してやる。

「ちょっと俺のじゃ小さいですね」
「いえ、助かります」
「服は干しておきますから」

 自分より一回り体格がよく背も高い男から濡れた服を受け取り乾燥機に放り込む。 それからいそいそと厨房に立った。 久しぶりに町の仲間以外に腕を振るうことができると張り切って、何点か暖かい料理を用意する。 寂しい夜に偶然訪れた客に、ヨウスケの方が気分が浮き立って、なにか楽しかった。


「すごい!」

 男は、テーブルに並べられた料理の数々に感嘆の声を上げた。 たいした材料もなかったので、どれも簡素なものだったのに、そんな風に喜んでもらえてとても嬉しくなり、ヨウスケは取っておきのワインまで持ち出して歓待した。

「どうぞ」
「はい!」
「…どうですか?」
「すごい、美味いです!」
「それはよかった」

 二人で料理を次々に平らげ、会話も弾み、打ち解けて、まだ互いに名乗りあいもしていない事も忘れて、飲んで食べて語り合った。 久々に楽しい夜だと思った。

               ・・・

「あ…痛っ」

 目覚めると、頭がずきずき痛んだ。 昨夜、ちょっと酒を飲みすぎたようだ。 気が付くと自分のベッドで、全裸だった。 ぎょっとして記憶を辿るが、昨夜楽しく飲んで話していたところまでしか覚えていなかった。

「俺、客を放って寝ちゃったのかなぁ」

 しかも全裸で? 体を起こすと、だがあらぬ所から背中にかけて鈍い痛みが駆け抜ける。 恐る恐る立ち上がってみると、太腿を粘質の液体が伝った。 自分も男だ。 間違えようはずもない。 それは精液だった。

「え…、な、なにこれ、え? 俺、男に抱かれた?」

 慌てて辺りを窺うが、家の中に自分以外の人の気配は既に無かった。 ほうと溜息を吐くのも束の間、浴室に飛び込んでシャワーを浴びる。 体が痛んだが、そんな事を言ってはいられなかった。 自分のアナルにそっと指を差し入れてみる。

「いっ痛うっ」

 ぴりっとした痛みに顔を顰めながら、ゆっくり差し込んだ指を動かすと、どろっと白濁した汁が零れてくる。

「俺…」

 やっぱり自分は昨夜あの男に抱かれたのだ。 どろどろと止め処なく流れ出してくる精液。

「こんなに…」

 こんなに中に放たれるには、一回や二回では済むまい。 俺は…。 よろりとして壁に手を付いた。 ふとその壁面に据え付けられている鏡に目をやってまた愕然とする。 体中に赤い花が散ったように鬱血の跡があるではないか。

「キ…キスマーク?」

 ヨウスケは、呆然と水しぶきに打たれ続けた。

               ・・・

「ヨウスケ君」
「あ… コウキチさん」
「どしたの? ぼうっとして」

 コウキチは、ヨウスケの休憩所仲間の一人で、ここら一帯の旅館の中でも最高級の宿の一つのオーナーだった。 30後半のヨウスケにとって、50代半ばのコウキチは殆ど父のような存在で、そこの厨房へも野菜を収めている関係上親しくしてもらっていた。 今日も野菜を届ける約束だったので、あの後気を取り直してコウキチの旅館を訪れていた。

「あの、これ今日の分の野菜です」
「あ、いつもすまないね。 厨房へ持ってったらお茶でも飲んでってちょうだい。」
「はい、ありがとうございます。 …あの」

 昨夜の男は、コウキチの旅館に行く途中で迷ったと言っていた。 ならば今この建物の何処かに居るのだろうか。 名前も判らないが容姿などの特徴を言えばもしかして、と尋ねようとしたその時、コウキチが「ちょっとごめん」と言ってヨウスケの背中越しに誰かに挨拶をしてそちらへ向かった。 見ると、ブランドのスーツをきちっと着粉した紳士が、女将や厨房の連中にまで送られて玄関を出ようとしているところだった。

---よほどの上客なのだろう

 コウキチ自身があんな風に平身低頭して客を送るなど、錚々ない。 ヨウスケは、取り敢えず野菜を届けてしまおうと、邪魔にならないように道の端を歩き擦れ違おうとした。 不躾に出入りの旅館の客の顔など見たりはできないので、下を向いて僅かに会釈をしながらトボトボ歩いていると、その客の方からヨウスケに声がかけられた。

「昨夜はお世話になりました」
「え?」

 吃驚して慌てて顔を見ると、その男こそあの自分を抱いたらしい男だった。 着ている物が違うだけでなく、大分雰囲気も違っていて全く気付かなかったのだ。 ヨウスケは至近距離で顔を覗きこまれて、硬直して言葉を失った。

「体、大丈夫ですか?」

 男は意味深に囁いてきた。 やっぱり! そう思って尚顔を強張らせていると、男は怪訝そうに眉を顰めた。

「あれ、覚えてない?」
「な、なにを…?」
「…」

 不服そうに更に眉を寄せ、男は腕をくんでヨウスケを睨んだ。

「あなたは昨夜…」
「なに、お二人は顔見知り?」

 その時、コウキチが間に割り込んできた。

「い、いえ… あの、ちょっと」
「昨夜ね、道に迷っちゃった時、こちらのお宅にお邪魔させていただいたんですよ、ね」

 ね、と同意を求められても、ヨウスケにはただ首をこくこくと振る事くらいしかできなかった。 コウキチの前で何かとんでもない事を言い出されないかと、内心では卒倒しそうなくらいドキドキしていた。

「ああ、そうだったんですか」

 コウキチははぁと頷き顎を擦った。 剰え、何か察したらしい目つきをされ、ヨウスケは更に落ち着かなくなった。 男の方もそれ以上は言う気がないらしく、黙ってただ自分を睨むように見つめるのみだった。

「あの、俺はこれで」
「そうね、じゃ後で、ヨウスケ君」
「はい」
「先生、どうぞ。 お車が待ってます。」

 コウキチが卒なく男を促し、その場が開けた。 ヨウスケはほっとすると共に、コウキチの言った言葉に首を傾げた。

---先生?

 学者か何かなのだろうか。 厨房の板長の傍を通る時、あの人はいったい誰なんですか、と問うてみた。

「あの人知らないの? ヨウスケさん。 洋食の材料関係の貿易で成功した実業家だって。 本人も凄い料理人らしいよ。」
「え! そうなの?」
「すっげぇよなぁ。 これからフランスだってさ」
「そうなんだ…」

 そんな相手に自分はあんな拙い料理を出してしまったのかと焦る。 軽食屋とは言え洋食を出す料理人を目指していたにも拘わらず、ヨウスケは全くその人物を知らなかった。 昨夜、自分の店に訪れた時の濡れ鼠の姿とは似ても似付かぬ黒い洒落たスーツを着、手にはアタッシュ・ケースを提げてハイヤーに乗り込む颯爽とした姿を、ヨウスケは離れた場所からぼんやり見つめた。 自分は本当にあの男に抱かれたのだろうか? 確かにさっきそれらしき言葉を囁かれはしたが、それだとてはっきりとその意味かどうか、最早判らなくなっていた。 それなら誰が、と考えればやはり彼しか思い当たる節はない。 ヨウスケは振り払うように頭を振った。 そんなヨウスケを、男は車のドアが閉まる前に一度だけチラと見遣った。
 




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