春雪
1
一.回廊
イルカは禿に手を曳かれて中庭を廻る回廊を歩いていた。 花魁の衣装は重い。 女の身では余計に重かった。
---女性ってたいへんなんだな
ぼけぼけと内心暢気なことを考え、碌に辺りへの注意も払わず、行く先も手を曳く禿任せであった。
何も考えていなかった。
考えたくなかった。
とにかく中身はそんなだが、表面は如何にもおっとりとした花魁姿で、俯いてしずしずと歩いている様は淑やかそのものだった。 ふと前を行く禿が足を止めたので、イルカは若干だが視線を上げた。 男物の着物の裾と足袋を履いた足が見えたので、自分もそっと廊下の脇に寄って道を空ける。 間違っても顔を上げて相手の顔を見たりはしない。 楼閣で他の部屋の客の顔などジロジロ見てはならない、廊下などで偶然会ったとしても、例え顔見知りでも、素知らぬ振りをするのが礼儀だ、と協力者の女将に言い含められたイルカは顔を上げなかった。 どっちにしろその方が楽だったし、これから嫌でも関わらなければならない相手以外の楼閣の客などと、間違っても顔見知りになりたくはなかった。
気が重かった。
擦れ違いの相手はなかなか通らない。 まだ邪魔なのだろうか。 花魁の衣装は結構華美だ。
イルカはもそっと体を避けた。
時は春だったが季節外れの雪が舞い、中庭に一本だけある白梅の綻びかけた蕾の上にも雪が光っていた。
---寒いな
雪模様の上に既に夕刻で、大きく開いた襟元から覗く項に寒風が当たり、イルカはふるりと身を震わせた。 相手はまだ通らない。 一歩前の禿が、焦れたのか先に進もうとイルカの手をまた引き出した。 その時、突然寒さが増した気がした。 ぴきんと張り詰める空気が痛いほどだ。 禿がひっと微かに叫んだ。 そこに至ってやっと、イルカはそれが寒さではなく、殺気なのだと気がついた。
---なんてボケなんだ!
ざざっと血の気が引く思いをしながらも、何気なさを装って男を見上げる。 内面が忍のそれに切り替わっていくのを感じた。 だが…
「かっ………」
カカシだった。
最悪だ。
イルカはさっと俯いて顔を反らしたが、完全に気取られているのが解る。
カカシも商人風に化けていて、顔形も髪の色も全く別人に変化していたがイルカに解ったくらいだ。 ただ単に女体に変化しただけのイルカなど、化けた内に入らない。
---最悪だ…
だりだりと汗が流れる。
---どうしよ〜
俯いたまま硬直が解けない。
殺されるかも…。
急にふっと殺気が緩み、カカシの優しげな声が禿にかけられた。
「私はこの姐さんに話があるから、おまえは一足先に部屋に行って、少しだけ遅れると伝えておくれ。」
禿は無言でコクコクと頷くと一散に駆け去った。
「あっ」
---置いてかないで〜
手を振り解かれたイルカは心細さに思わず小さな禿の後を追おうとしたのだが、再び膨れ上がる殺気に押しつぶされて、その場にへたり込んだ。
---怒ってる? すんごく怒ってる?
顔を見れない。
恐い。
ひたすら俯いて冷や汗を流している処をむんずと腕を掴まれて、面した部屋の襖を開けてそこに放り投げられた。 部屋は幸か不幸か誰も居らず、家具も何もない只の畳敷きの部屋だった。 後ろ手にぱたんと戸を閉てると、カカシは部屋中に殺気を漲らせた。
---そこまでしなくても十分俺は降参なのに
泣きたい気持ちで、否、既に半泣きで、カカシから距離を取ろうとイルカは畳の上を後退ったが、六畳ほどしかない部屋だ、直ぐに追い詰められて仕方なく、おずおずとカカシを仰ぎ見た。
「あ、あの…」
名前を呼ぶ訳にもいかない。 だってカカシも任務中らしいし、自分だって一応任務中なのだ。
---そうだよ、俺だって任務で仕方なくこんな格好を!
解ってほしい。 縋る気持ちでカカシを見る。 それなのに…。
「イルカ先生っ 何なんですか、その格好は?!」
名前呼ぶし。
怒ってるし。
…最悪だ。
***
イルカがその男に会ったのは、全く関わりのない別の任務のしかも終わった後の帰り道だった。
自分が馬鹿だったのだ。 顔見知りのくノ一が居たからと言って、何故ほいほいと声を掛けてしまったのか。 自分は忍服で相手は私服。 これだけでどうして相手が休暇だなどと思ってしまったのか。 普通、逆だろう。 マヌケな話だった。 覆面任務のくノ一に、任務中に声を掛けてしまったのだ。 しかもまんま忍の格好で。 嗚呼!
タイミングが悪い時は徹底して悪いものだ。 重なるってことだ。 彼女はターゲットと今将に接触しようとしていた。 否、その相手がもうすぐそこまで来ていた。
「イルカ! 女に化けて! 早く!!」
彼女は目を眇めて小声で叫んだ。 まぁ素早さは合格点だったと思う、自分でも。 ちゃんと私服にカムフラージュする気配りもあった。 だがやはり、運が悪い時は徹底して悪い。 ターゲットはイルカに一目惚れした。
「なーんーで、このあたしじゃなくてイルカなのよ?!」
屈辱だわっ 男に負けたなんて! と憤慨したくノ一の葎はイルカの古い友達で、数少ない生き残り組みの一人だった。
そんな事言ったってなぁ、男と言うけど女に変化していた訳だし
厳密に言うとただの女の好みのタイプの問題じゃ?
「ばかイルカ!!」
彼女はぷりぷり怒ったが、その任務はデリケートな仕込を長く慎重に行った末の、失敗の許されない非常に手間も金も掛けられたものだったとかで、火影に直訴してイルカを急遽チームのメンバーに加えてしまった。
「責任、取ってよね。」
まだ怒ってる。 平謝りに謝った。 もういいわよ、と言われたが、任務から外してはもらえなかった。 そんな訳で、イルカは花魁になった。
任務内容は、
『ターゲットを接待して、ある国との密輸を承諾させること。 閨房術の使用を認める。』
け、けけけ閨房術って?!
「別に使わずに済めばそれでいいわよ。」
そんなこと言ったって〜。
俺に、誰かの篭絡なんて無理だよ〜。
「あんたは素でいてくれたらいいのよ。 そういうのがお好みらしいから。」
素って、俺、男だぞ?
中身が男でいいのかよ?
「いいの、いいの。 そういうあんたが気に入ったって言ってるんだから。」
そんな〜っ
「とにかくっ あんたはそのまんまでいてちょうだい。 何か余計なことしようなんて考えないで。」
彼女は、密輸を承諾させるための然る国の接待コンパニオン役という設定だったので、イルカもそのままその設定で行くことになった。 ターゲットは、この人が接待してくれるのならとイルカを指名してノリノリになったとの報告にチームは色めきたち、イルカは益々後に引けなくなった。
チーム・リーダーの彼女は仁王立ちで片手を腰に当て片手を口元に当てて高らかに笑った。
「この任務、楽勝かもよ!」
イルカ、春でも何でも売りなさい! おーほっほっほっほっほっ
神様、俺が悪うございました。
願わくは、どうかこの事がカカシさんにだけはバレませんように。
バレた。
***
カカシは、到底自分でなければならない理由の見つからない任務のために、姿まで変えてある楼閣に入り込んでいた。 任務そのものはあっという間に済んだ。 ある有力者婦人の篭絡だった。 遣らずに済めばそれでよい、と言われたが、行き掛かり上閨房術が使用された。 仕方のないことだ。 だが、カカシはこの任務そのものが、任務内容の詳細全てが、何かの符号のような気がしてならなかった。
---きっと何かある
本能がそう告げた。 簡単なはずの任務の隅から隅まで、起こる事のひとつひとつに、カカシは注意を払った。 できることなら、何も起こらずこのまま里に帰れますように。 祈る気持ちになるなど、自分に関してなら有り得ない。 カカシは最も無事を祈らずにはいられない相手の顔を思い出しては打ち消し、思い出しては打ち消していた。 これは彼が、イルカを終の相手に選んだ瞬間から逃れられないジレンマとなって終始付き纏っている現実だ。 本当に彼の無事を祈るなら、自分は彼との接点を持ってはならなかった。 そんな事は重々解っていたが、イルカに関わらずにはいられなかった事もまた、覆しようのない現実だった。 彼を求めずにはいられなかったのだ。 彼との出会いは決められた事のように感じたし、出会ってしまったら、どうしてその先を望まずにいられようか。 その術があるのなら、教えて欲しい。
イルカを得たカカシの日常は、当然のことだが、一変した。 日常でイルカから与えられる信じられないような幸せと、イルカに何かある度に感じる信じたくない程の恐怖。 ひとつ得、ひとつ失う。 これが真理というものなのだろうか。 残酷な神が支配しているのだ、この世の中は。
そして今、そのイルカが、艶やかな花魁姿で禿に手を曳かれて目の前の回廊を歩いていた。
BACK / NEXT