真言使い
- From Dusk Till Dawn -
10
里まで負ぶって行くと言う試験管の男に、迎えが来るからと断ってその背を見送った。 もしかしたら二度と見ることのできないその背は、朝日に透けて輝く銀の髪のようにどこか儚く幻のようで、イルカはひとり涙を零していつまでも眺めた。
瞬身した男の姿が見えなくなると涙を拭いコウを待つ。 コウはイルカが結界を外すと直ぐに現れた。 最初は巨大な白虎の姿をしてノシノシと歩いて来たコウだったが、イルカの側までくると何時もの白髪の大男の姿に変化した。
『犯られ放題だったな。 俺が仇をとってやろうか?』
「コウさん…」
イルカは溜息と共にその昔馴染みの妖魔を迎えた。 無遠慮にモノを言うその妖魔は、付き合いだけなら親より長い。 彼は小さい頃からずっと側にいてくれた唯ひとりの者だった。 ずっと見られていたかと思うと顔から火が出そうな程だが、この森で起こっている事をコウに隠す方が難しい。
『大騒ぎだったが、終わったのか?』
「うん。 変な奴がいっぱい来たみたいだけど、皆は大丈夫だった?」
『いいオヤツになっただろ』
「騒がせてごめん」
『おまえの所為ではない、みんなアイツがやった事だ。』
「試験のためだよ。」
『殺されかかってもそう言うのか、おまえは。 その上』
「コウさん、俺に暗示をかけた?」
イルカがコウの言葉を遮るように問うと、コウは尊大に腕組みをして試験管の男が去った方を暫らく睥睨した後、イルカを見下ろして素っ気なく答えた。
『ああ』
「三代目に頼まれたの?」
『そうだ』
「もう…」
『役にたっただろう』
ふんっと鼻を鳴らさんばかりに言われて、イルカは頬を膨らませた。
「みんなして俺のこと過保護にしすぎるよ。 俺だってもうちゃんと中忍なんだから…」
イルカは泣きたい気持ちを堪えて、最後の大事な質問をした。
「その暗示、コウさんが解くの?」
『そうだ』
「解けたら俺、あの人のこと忘れる?」
『どうかな、判らん』
「判らんって」
『解くぞ』
「コウさん!」
唐突な物言いと共に伸ばされてきたコウの手に戦き、イルカは慌ててコウから距離を取った。
『その暗示はあまり長く掛けていない方がいい。 判ってるだろう? 空白の時間は短いに越したことは無い。』
コウの無情な言葉に絶望する。
「やっぱり忘れるんじゃないか!」
イルカが怒鳴るとコウは含みのある顔をして一つの提案をしてきた。
『ひとつだけ、忘れないまま暗示を解く方法がある。 やってみるか?』
「うん! それ、どうするの?」
イルカが無邪気に喜ぶと、コウはニヤリと口端を歪めた。
『おまえを抱きながら解術する。』
「え……」
コウがジリっとイルカに寄った。
イルカが同じだけ後退る。
信じられない者を見る目をして。
『せっかく男を覚えたんだ。 俺と楽しもう、イルカ』
「だって…、だってコウさん…」
じりっじりっと間合いを詰められ、イルカは足を震わせた。 とてもまだ走れない。 唯でさえ足ではコウに敵わないのに、コウが本気になったらイルカなどひとたまりもない。
「あっ い、いやだ、コウさんっ」
それでも反射的に走り出そうとしてしまって、その途端コウの大きな手に掴まり体ごと抱きかかえられて足が宙を掻く。
「コウさんっ!」
近付いてくるコウの唇に両手を宛がい腕を力の限り突っぱねる。 体を捩って暴れてもコウの腕の拘束はビクともせず、コウがイルカの掌をベロリと舐めてくるのにイルカが震えると、低い轟くような声で唆された。
『忘れたくないんだろう? 俺に抱かれろ。 そうでなくても、記憶を失くしたおまえに”抱いたのは俺だ”という偽の記憶を刷り込んで、おまえを虜にする事もできるんだぞ。 それよりはいいだろう?』
「嘘だっ コウさん、俺にそんな事しないっ 離してっ」
『このままだと、おまえは自分が取り戻せないぞ、それでもいいのか? おとなしく俺に抱かれろ、イルカ』
「や、やだ、離せ、離してコウさんっ」
『自分も取り戻せて、あいつも忘れない。 その代わりにちょっと俺に体を差し出すだけだ』
「いやだー! 俺、自分なんか無くていい、あの人こと忘れてもいい、でもあの人以外に抱かれるくらいなら死んだ方が」
マシ、と言おうとした瞬間、コウの大きな手で口を鷲掴みにされる。
『不吉な言葉を言うな。 言霊は一旦発したら取り戻せない。』
「だって、だって…う、うふっ」
イルカが堪らずしゃくりあげると、コウが静かな声で問うてきた。
『そんなにあの男が好きか?』
「う、うん」
『初めての男にぽーっとなってるだけじゃないのか?』
「違うっ 俺、ほんとに、あの人が好きになっちゃったんだよ」
『男同士だぞ?』
「わかってるよ、でも好きなんだ」
『わかった』
コウはふぅと溜息を吐くとイルカを降ろした。
『脅かして悪かったな。 おまえが心配なんだ。』
「うん、わかってる」
イルカがコウの首に抱きつくと、コウが優しくイルカの背を撫でた。
『あの男は苦労するぞ』
「そんなことないよ」
『心配だ』
「だいじょうぶだよ」
『おまえが忘れても、俺は一切言わないからな』
「うん、あの人がきっと見つけ出してくれるから」
『信じられるか』
「俺は信じてる」
『それに、おまえの方が他の者を好きになっているかもしれんぞ』
「ならないよ、俺またあの人を好きになる」
『頑固だな』
コウは諦めたように溜息を吐いた。
「コウさん、あの人は凄い人だよ。 俺、あの人が木の葉の上忍で本当によかったって思ったんだ。 あの人なら信頼して里の行く末も任せられるって。 それに俺のことも認めてくれた。」
『おまえを誑かして不埒な真似をした男だぞ?』
「閨房術だよ」
『イルカ…』
コウがさも呆れた様子で言い募った。
『本当にアレを術の試験だとでも思ってるのか? おまえは騙されて弄ばれただけだ。』
「違うもんっ コウさん、意地悪言わないでよ…」
イルカは半べそを掻いて頭をふった。
本当は自分でも自信なんてない。
彼を信じられない、というよりも、自分にそんな価値があるのかどうか自信がなかった。
でも、信じる以外にどうしようもないじゃないか、と項垂れると、コウがイルカの顎を取って上向かせ指先で涙を拭ってくれた。
『意地悪で言ってるんじゃない、心配してるんだ』
「うん、わかってる。 だけど、俺信じたいんだ。」
『仕方ないな』
コウはまたひとつ溜息を落とし、イルカを見た。
『あの男に関する記憶は封じられる。 それでいいな?』
「うん」
イルカはこくりと頷いた。
『アイツが約束を守れば、或いは記憶が戻るかもしれない。 後はおまえ次第だ。』
「うん」
『解くぞ』
「う…、うん」
『俺の目を見てろ』
イルカは緊張してコウの目を見つめた。 その金色の瞳の瞳孔が縦にきゅっと窄まる。 コウはイルカの額に片手の指を当て、もう片方の腕はイルカの首の後ろに回してガッチリ固定すると、顔を近づけてきた。
「コ…コウ、さん…」
『黙ってろ』
言うなり額のコウの指先が熱くなった。 それと同時にコウがいきなりイルカの口を塞ぐ。
「う、うぐっ ん」
イルカが体を捩っても、コウの腕の拘束はびくともせず、接吻けは続けられた。 額の指もどんどん熱く成って行く。 それと平行して意識が徐々に白んできた。
『これで少しはあいつの事がおまえの意識に残るだろう。』
コウの声が微かに耳に届いた時、イルカは完全にコウの腕の中で昏倒していた。
***
火影三代目その人は、一晩中まんじりともできなかったのか、執務室で一人カカシを待っていた。 得意の水晶玉も西の森の中には届かない。 それは森の妖魔と火影との契約に由るものだと実しやかに囁かれていたが、上忍で信じるものは誰もいなかった。 唯、何か結界のような力があの森には有るという事は判っている。 カカシもその自然の結界による障害だと理解していた者の一人だったが、今は少し妖魔の力の方を信じる気になっていた。 瞬身した後、中忍の男を迎えに来るという者の姿を一目拝んでおこうと大木の枝で身を隠して様子を窺っていたのだ。 巨大な白虎が彼にノシノシと近付いていった時は、思わず飛び出しそうになった。 だが、白虎は白髪の大男と成り親しげに彼に話しかけたので、カカシは枝から落ちそうな程驚いた。 森の妖魔が男を襲わないはずだ。 その白虎は恐らくこの森の主だろう、と初めて見たカカシにも判るほど強大な妖気を垂流している。 主に大事にされている者は例え人間でも襲うまい。 自分の召喚した小妖魔もさっさと片付けられてしまうはずだ。 あの男がもし森の妖魔達を味方に付けて闘っていたら、危なかったのは自分の方だったとカカシはその時に背筋を冷やしたのだ。 益々彼の事が判らなくなり、カカシはもう一度戻ろうかと考えた。 だがその時、こちらに背を向けている彼の頭越しに、白虎がカカシを睨んできた。 ここに居る事がバレている。 そしてあからさまに威嚇してきている。 カカシは仕方なくその場を後にしたのだった。
「かわいい人ですよね、あの人。 三代目が大事にする気持ちわかりますよ。」
「目に入れても痛くないわい」
カカシは、三代目火影の名に恥じない貫禄と実績を誇る老人が、目を細めて臆面も無くそんな事を言うのに苦笑するしかなかった。
「なんであんな人に上忍試験を受けさせたんですか?」
取り敢えず老人の戯言は流して、疑問に思っていた事を問うてみる。 これほど可愛がり、上忍などにしたくない旨を当の上忍の前でしゃあしゃあと言って憚らないほどの大事な者に、何故敢えて試験など受けさせたのか、どうしても腑に落ちなかった。
「まぁの、上層部からの圧力があって仕方なかったのじゃ」
それまで忘れていたのをやっと思い出したように、火影は煙管を手に取った。
「確かに、凄い真言使いでしたよ。 この俺も相当手こずらされましたからね。」
「そうじゃろそうじゃろ、アレはな、この儂が教えたのじゃ」
でれでれと相好を崩して嬉しそうに相槌を打つ火影の顔はなるべく見ないようにして、カカシは更に問うた。
「でもあの人、自分が真言遣えること隠してたみたいだし、一見して上層部の目に止まるほど目立つような感じの人じゃないですよね? どちらかと言ったら一生中忍やってるみたいな」
「う… まぁな、いろいろ事情があるんじゃ」
「彼もそんな事言ってましたけど、いったいどんな事情なんですか?」
「ちょっと待てカカシ、おぬし随分とあ奴と話をしたようだが、氏素性を探るようなことはしなかっただろうの?」
「俺がそうするって決めてかかってませんか、三代目」
カカシが怨めしそうに老人を見遣ると、火影はふんと鼻を鳴らした。
「お主の事などお見通しじゃわ」
「やっぱりねぇ」
「それで、したのか?」
「しましたよ」
嘘を吐いても始まらないと、カカシは白状した。 知りたい事はまだこの老人の手の中だ。 だが火影は、煙管を銜えた口の透き間からふぅっと溜息のように煙を吐き出し呟いた。
「そうか。 ではあの子の記憶に穴が開くわけじゃな。 なるべくそういう不自然な事にはしたくなかったんじゃがの」
「かわいそうだと思うなら、あんな暗示かけなきゃいいのに」
横目で火影を睨み、カカシは溜息を零した。
「あの白虎にやらせたんですね?」
「そうじゃ」
「火影様があの森の妖魔と通じているというのは、本当だったんですね」
「ふん、初めて知ったような口をきく」
「彼は何故あんな大妖魔と親しいんですか?」
「…」
「?」
火影は途端に口を閉ざした。
カカシが訝しげに首を捻ると、煙管をコンコンと灰受けに叩き新しい煙草を詰め出した。
「あの妖魔はの、あの森の主でコウと呼ばれておる。 もちろん、本当の名ではない。 あの子が両親を亡くしてから精神的な支えとなってきたのじゃ。 物理的な援助は儂が引き受けておったがの、儂も火影に返り咲かねばならなかったしなかなか行き届かなかった所もあった。 気がついた時には、あの子は妖魔を友としておった。 最早止めようも無いほど依存しておっての、引き離せなかったのじゃ。 ましてやコウは…」
そこまで一気に喋っておいて、火影は詰めた草にゆっくり火を点けた。
「元々あの子と縁の深い妖魔だったのじゃ。 儂らよりずっと昔からのな」
「彼は、妖魔使いなんですか?」
「違う。 彼らは妖魔を決して使わん。」
---彼ら?
カカシが首を傾げて尚も問おうとした時、火影は大きく吸い込んだ煙草の煙をふぅと細く長く吐き出してカカシに向かって手を振った。
「もうこの話は終いじゃ。 とにかくあの子に構うな。」
「名前を教えてもらいたいんですが」
火影はカカシを見てニヤリと口元を歪めた。
「ふふん、聞き出せなんだか」
「そういう風に暗示をかけたんでしょ」
「カカシ」
「はい」
「終いと言っておる。 忘れろ。 今回はご苦労じゃった。」
「俺、あの人が欲しいんですよ」
「なに?」
「ねぇ三代目、あの人を俺にくれませんか」
「なんじゃと?」
火影三代目は目を剥いてカカシを睨んだ。
「どういう意味じゃ?」
「そういう意味ですよ」
「それが遅れた理由か?」
「そういうことです。」
しれっと答えるカカシに更に目を剥き、火影は戦慄いた。
「おぬしっ イ…」
「イ?」
「…なんでもないわい」
「うーん、惜しい。 今の名前の出だしですか?」
「あの子に何かしたのか?」
「頂きましたよ、おいしくね」
「カカシ!」
老人の怒りのチャクラがカカシを襲ってきた。 老いたるとは言えさすが火影。 その圧倒的なオーラに気圧されながらもカカシは言い募った。
「雪の国から還ったら、俺、あの人を貰いますから」
「バカを言うな」
「じゃ、行ってきまーす」
ヒラヒラと手を振って火影執務室を後にする。
こら、とか馬鹿者、とかまだまだ火影三代目は何か頻りに喚いているようだったが、カカシは既に聞いてはいなかった。
今度会ったら本人から名前を聞こう。
そうして抱き締めてキスしよう。
知ったばかりの愛しい者は、なかなかに謎の多い人物のようだったが、カカシにとってはかわいい愛する人だ。
老人は彼の素性を隠したがっているようだったが、なに、調べれば直ぐにでも判るだろう。
カカシは高をくくって任務に赴いた。
だがその後五年間に渡って、カカシは彼に会えなかった。
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