聖域

-SANTI-U-


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                    三日前

「ねぇ、イルカ先生。 サウダージって言葉、知ってますか?」
 あと三日で三ヶ月以上かかる長期遠征に出るイルカと、飽くことなく睦みながらの閨でカカシが問う。
「サウダージ、ですか? どこの言葉です?」
 イルカが知らない、と首を振ると、片肘を立てて頬杖をつき、うつ伏せるイルカの後れ毛を掬い上げながらカカシがニコリと笑った。 元々見目が端正なカカシが微笑むと、思わず見惚れてしまう自分を未だに止められない。 この男に先程まで身も世も無く喘がされていたのか、と思うと余計だった。
「忍の五大国がある大陸とは広い海を隔てた別の大陸の、遠い異国の言葉です。」
「よく…ご存知ですね、そんな言葉。 どういう意味なんですか?」
 時々物凄く博識振りを発揮してイルカを驚かせるカカシは、特に異国の情報については、唯「はぁー」とか「へぇー」とか相槌を打つことしかできないほど、不可思議で珍しい事ばかりをイルカに語って聞かせた。 主に閨で、事後にだが。
「俺達の言葉では、ビシッと当て嵌まる丁度いい単語が無い言葉なんですけどね、ま、一番近いところで”郷愁”かな」
「郷愁、ですか。 故郷を懐かしむ心?」
「まぁ、そんな所です。 でもね、サウダージはもっといろいろな意味を併せ持った言葉なんです。」
 たとえばね、とカカシはイルカの横にゴロリと横になってイルカの手を取ってきたので、イルカも体をなんとかカカシの方に横向けて、カカシの手に手を絡めた。 体はまだカカシの感触を濃厚に覚えていて、痺れるような快楽の残り香と実際にカカシが自分の中に注いだ熱とが、少し動いただけで零れ出てきた。 気付かれないようにそっとシーツを引き寄せる。 今はカカシの暖かい手を、指を感じながら、カカシの低い声で話される言の葉共を聞いていたい。 イルカは、どうかすると体を併せるよりもこうした手を握り合う事や軽い接吻けのようなスキンシップを好む事を、カカシはよく心得ていた。 それなので、まず肉食獣のような凶暴な自分の欲望を満足させると、イルカのささやかな願いを叶えるべく、しばしばこうして優しい者にも成る事を厭わなかった。 否、厭わなくなったと言うべきか…。

 サウダージはね、遠く離れた恋人を恋しく想う気持ちとか
 別れてしまった愛しい人に、もう一度会いたいと願う気持ちとかも
 表すそうですよ
 それを遠くから想うって意味では、故郷と恋人って似てるのかもしれませんね
 心や気持ちがそこへ一心に向かうって言うかね
 傾くっていうか
 そういう時感じる、切なさや、哀しさや、懐かしさや、淋しさ、甘さ、ほろ苦さ
 そういった心の全てが、サウダージなんですって
 
「だからね」
 とカカシがイルカの黒瞳を見つめて言う。
「あなたが遠い異郷の地で木の葉を懐かしく想ったら、それがサウダージ。 あなたが野営のテントで俺を恋しく想ったら、それがサウダージです。」
 イルカはカカシのグレイがかった青い瞳の右目を見つめ、この瞳を覚えておかなくては、と急に焦りを覚えた。
「ひとりでいて寂しくて、あなたに側に居て欲しいと想うのも?」
「そう、それもサウダージ」
 この目が恋しい、この指が恋しい、この声が恋しいと。
「あなたの目の色や指の暖かさや、あなたの声が…」
 知らず一滴涙が零れる。
「思い出されて、あなたが…、あなたが俺にする事を思い出して、あの…、あなたの声だけでも聞きたいとか、指の感触だけでも思い出したいとか、それから…」
「それから」
 とカカシが涙で詰まったイルカの言葉を引き継ぐ。
「俺の唇があなたの唇に触れる感触とか、あなたが差し出す舌を俺が吸う感触とか、首筋を辿って鎖骨を舐めて、ひとつひとつ印を刻みながらあなたの胸に辿り着いた時もう硬く尖ってるあなたの乳首が感じる感触とか、それをあなたがひとつひとつ思い出して夜褥でひとり自分を慰めたくなったら、それもサウダージ」
 カカシは、イルカの指以外には触れることなく、言葉だけでイルカの体の芯に快感を走らせた。
「俺の指があなたのアナルを解して、あなたの好い所を責めてあなたを泣かす時のあなたの声や表情を、俺が切なく思い出すのもサウダージ。」
 イルカは、カカシの指が自分の指へ送る刺激に堪えられなくなって手ごと取り戻そうと腕を引いたが許されず、逆にその動きはカカシの新たな愛撫の手の呼び水となった。 カカシの手はイルカの肩に掛かり、頬に当てられ、再び体をシーツに押し付けられて唇が降りてきた。
「あなたの、くちび…る… ん」
 カカシはまず眦の水滴を吸い取ってから、イルカの唇に唇を寄せた。 キスが始まると言葉は一頻り途切れた。 イルカが時折漏らす喘ぎのみが耳を打つ。 接吻けながらも休まぬカカシの器用に動く手も、それが引き出す自分の淫らなカカシへの情欲も、遠地で切なく思い出せばサウダージなのだろうか、とイルカは徐々に思考力を失う頭で考えた。
「俺が… あなたを欲しくて欲しくて仕方ない気持ちや、体の疼きも… あっうん」
 カカシが濡れた後口にいきなり指を差し込んできた。 そこはしとどに濡れており、難なくカカシの指を招き入れてクチリと音をたてた。 カカシの目は既に情欲に塗れた色を放ち、声にも獰猛さが混じってきた。
「そう、俺があんたのココへ俺の欲望をぶち込みたくて堪らない気持ちも、あんたを貫いて思い切り揺さぶって、あんたの奥の奥を突いて突いて突き荒らして、あんたの達く顔を見る時の胸の熱さとか、俺自身の脳天突き抜けるくらいの快感とかを俺が思い出して、あんたが欲しくて気が狂いそうになるのも!」
「サ…サウ…ダージ? あ、あ、んん」
 言葉と同じように貫かれ揺さぶられて、イルカは首を打ち振って喘いだ。
「行くな、イルカ。 俺と居ろっ」
「あ、あ、カカシさ…、あ」
「行きたくないと言えっ 言って俺に縋れっ どうにかしてくれと、そうしたら俺はっ」
 カカシはイルカの足を抱え上げると、これでもかと真上から突き荒らしながら怒ったようにイルカに言葉を強要した。 何回も何回も。 カカシがそれをするのは最初では無かったし、それが最後でも無かったが、その時が一番哀しかった。

     ・・・

 行かないで、イルカ先生
 そんな訳にいきません
 行くな、イルカっ
 行きますっ
 行かせない!
 カカシさん…!

 何度、同じ事を繰り返しただろう。

 あの地は、昔俺が任務に失敗した任務地です。
 今でもクレーターが残っているそうです。
 俺は行かなければなりません。

 頑固なイルカ、糞真面目なイルカ、いつまでも罪悪感を背負っているイルカ

 俺が半分背負います。
 だから一人で行かないで
 俺に付いて来てと一言言って

 そんな訳には、いかないでしょう… カカシさん

 イルカは里の内情に一番近い所に居たから、何度宥め賺しても、何度閨で責めても、うんと言わなかった。 結局、折れたのはカカシの方だった。
 
     ・・・

「行きたくないと言えっ 言ってくれ…」
 カカシが項垂れて動きを止めると、イルカは体を戦慄かせた。
「行きたくないっ 俺だって、俺だって行きたくなんかないっ これっぽっちも!」
 カカシがはっとして顔を上げると、顔を両手で覆って嗚咽を堪えるイルカが居た。
「でも俺は、行かなきゃならないっ だって、だってこのまま忘れて、あなたと幸せになんか過ごせないっ」
「イルカ先生…」
 ごめんなさい
 声に出して言えないその言葉を、何度心で叫んだことか。
 今は謝れない。
 謝ったらカカシに行く事の許しを請うことになる。
 自分は絶対に折れることはできない。
 だから、謝ってカカシに許しを請うて行くことになったら、それはカカシが行かせた事になってしまう。
 もしも何かあったら…
 カカシに悔いばかりを残せない。
 これはイルカが自分で選んで、自分で決めたことなのだ、と最後まで貫かなければ。
「行きたくないです。 ずっとあなたの側にいたい。 ほんとです、ほんとに俺は…でも」
 でも行かなくちゃ、と言う言葉はカカシの接吻けに飲み込まれた。
「今あなたが俺と離れたくないと切に願ってくれるなら、それもサウダージです。 きっと還ってきてください、イルカ先生」
 何があっても、どんな目に遭っても
「還ってきますよ。 だって俺の還るとこって、もうここしかないんですから。」
 ね、とイルカが涙目で笑う。


 イルカが半強制的に引っ越しさせられたのは半年程前だった。 いろいろ事情が重なって、カカシが泣いて頼んだ結果だ。 今は里の外れの一軒家にふたりで居る。 周囲数キロをカカシの結界で固く守られている森の中の家だ。 そこに居てくれないなら俺は任務に行きません、とカカシは駄々を捏ねてみせた。 イルカは笑って、しょうがないですね、と言った。 言ってやっと折れた。 イルカが折れるのは本当に珍しい事で、いつもは何だかんだと言ってカカシが折れる。 それほどイルカは頑固だったから。 だが、イルカも限界だった。 カカシに守られる事を善しとしなかった二年間、いろいろな事があった。 カカシに寄り掛かるまいとして何とか我が身くらいは自分で守って過ごしてきたが、自分以上に傷付くカカシを見ていられなくなってしまった。 カカシはイルカが最初持っていたイメージとは違い、非常に感情豊かな人間で、よく笑い、泣き、怒った。 そして非常に心配性だった。 「あなた限定です」とよくカカシは言ったものだが、教え子三人に対しても変わらず心を砕いていたのをイルカは知っている。
 逆に、イルカの事をもっと感情的な人間だと思っていたのに結構淡白で驚いたと言うカカシは、なかなか泣けないイルカを閨に連れ込んでは、泣いて縋らせ、人に頼る心地よさを教えた。 幾度も幾度も根気良く、諦めず、頑固なイルカの心を解こうとするカカシに、イルカも徐々に頼っていった。 否、精神的にはとっくに頼っていた。 頼り切っていたかもしれない。 それに、一緒に住んでくれと駄々っ子のように泣いて縋るカカシの背を抱きながらふと思ったのだ。 100%頼りきっていないからと言って今この人を失っても自分は大丈夫だろうか?と。 そこでやっと気付いた。 もう何もかも遅い。 ならば、互いにそう長くは無いであろう人生を、互いの嬉しいように幸せなように過ごして何か不都合があるだろうか。 この人の望むようにして、この人の喜ぶ顔が見れて、それで自分も嬉しければいいではないか。 今まで意固地になっていた自分がバカのようだった。 まるで糸が切れたように、イルカはカカシの腕の中へどっぷりと体を浸した。 甘え、我侭を言った。 その時のカカシの嬉しそうな顔…。
 今では、カカシはイルカのことを”妻”と言って憚らない。 その既婚女性に冠せられる呼称に対し、イルカは自分でも不思議なほど抵抗がなかった。 カカシが嬉しそうにしているので自分も嬉しい。 面識の無い他人から「おまえがカカシの”妻”か」と興味津々に言われても、はい、と笑って答えられる。 そして気の置けない仲間から「おまえの”ダンナ”が迎えにきてるぞ」などと言われても、多少こそばゆい気はするものの嫌ではなかった。 男女の間に成り立つ夫婦関係とは違う、かと言って恋人同士として互いの家を行き来していた頃とも違う自分達の関係。 子も生さず、唯共に居る。 そこには純粋にお互いを想う気持ちしか存在しなかった。


 サウダージ
 還りたいと思う心
 お互いを抱き締め合って接吻け合う
 必ず、必ず還ってきてと
 愛しい人に向かう心


 今回の遠征は、何か嫌な予感がすると、カカシは最後まで口にできなかった。









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