死にゆく者への祈り

- A Prayer For the Dying -


5


 やはり、雨が降っていた。 この街の陰鬱さの90%はきっと、この雨からできている。 祖国の気候もどちらかといえば厳しい方だと思うが、この街のように毎日々々霧雨というのはなかなかに鬱陶しい。 しかも霧雨だと思って荷物を嫌い傘を持たずに出歩けば、知らぬ間に髪を濡らし、コートに浸み込み、体を冷やし重くする。 やっかいだ。 ああ、でもそうだな、それはそう、雨の所為ではない。 雨は別に、誰かを特定して降り注いでいるわけではない。 何の意図するところがあるのでもない。 ただ平等に降っている。 それだけなのだ。

          ・・・

 やれここは禁煙だ、やれ外出時は傘を持って行け、やれ信仰心を取り戻せ…。 顔を見ればあーだこーだと口煩い神父が顔を見せなかった。 何か嫌な予感がした。 それが昨日の朝。
 その前の晩に彼と口論になり、少し気になることを言っていたので、まさかとは思ったが例のマフィアのボスの所にこちらから出向いた。 それが昨日の昼。
 だが結局、彼は現れなかった。 おかげで半日、できれば顔も見たくないボスと行動を共にしてしまった。 彼は丁度、表の仕事に勤しんでいるところだった。 裏の顔はマフィアのボスだが、表の顔は葬儀屋の社長なのだ。 ”ご遺体”に死に化粧を施し、納棺し、火葬する。 火葬場へも必ず行くし、遺体火葬用の焼却炉も自分で操作する。 妙に熱心に表の仕事に取り組んでいる。 ポリシーを持っていると言っていい。 そんな訳で自分も火葬場へ付き合わされ、焼却炉の使用方法などもみっちりと教えられてしまった。 それが昨日の夕方。 覚えておいてよかったと図らずも思ったのがその数時間後だった。
 その日は、いつも兄にべったりの彼の弟、あのサイコパスの変態野郎も、一日姿を見せなかった。 兄の威を借るキツネのくせに珍しいと思って訊けば、俺が来る前の朝のうちに一度来たらしかった。 朝から出かけていたらしい神父とヤツの動向、その符丁に俺はもう少し早く気付くべきだった。 そうすれば結果はもっと違うものに…否、後で言っても詮無いことだ。 俺は気付けなかった。 とにかくヤツは朝来て、兄が精魂こめて化粧を施していた”彼女”に対して例によって下卑た言葉を吐いた。 まだ十代半ばの少女だった。 レイプされ殺された。 美しいその顔に頬紅を注していた手を止めて兄は眉を顰め、冷たく弟を追い出し、意識の内からも締め出した。 乳飲み子のうちに母を亡くした歳の離れた弟を溺愛する兄でも、侵されたくない聖域というものがあるのだろう。 が、それが俺達には幸いした。 俺は、その糞サイコパス変態野郎の死体を誰にも知られることなく闇に紛れて例の火葬場まで運び、教わったばかりの装置で焼却することができた。 ヤツの死を知れば怒り狂って報復に走るだろうマフィアのボスが事態に気付くまでにも、まだ多少猶予があった。 それが今日に日付が変わって間もなくの頃だった。
 だが、前述の通り根本的に俺は間に合わなかった。 昨日の深夜、兄も知らないヤツの隠れ家で神父を見つけた時、彼はベッドで縛られ散々ヤツに犯された後だった。 そしてヤツはその時既に死体だったのだ。

「彼は?」

 発見した時には意識の無かった神父は、手首の縄を解いて二三度肩を揺すり声を掛けると覚醒したが、第一声がこれだった。 自分を拉致し、拘束して犯した相手の安否だった。

「大丈夫だ、ここには居ない」
「違う…彼は、死んだのか?」

 ああ、死んでいたとも。 死後硬直も無かったので事切れた直後だったのだろうが、そんな事はどうでもいいことだ。 今頃はもう半分灰になっているだろう。

「いいや。 だが、当分立ち上がれないくらいに俺がボコっておいたから、安心しろ。」
「そうか…」

 彼が簡単に信じるとは思わなかったが、嘘を吐いた。 だが、恐らく薬でも打たれて半分朦朧としていたのだろう。 よかった、という顔を彼はした。

「ありがとう」

 剰、礼まで言った。 馬鹿か? 俺の所為でそうなったんだろう?! 無性に苛つく自分を抑えるのがやっとだった。 彼の平等さに腹が立った。 彼の自己犠牲の精神にも我慢がならなかった。 だが時間が無かった。

「礼には及ばない。 それより、確認しておきたいんだが。」
「…な…んだ」
「おい、眠るのは教会に帰ってからだ。 俺に背負って行かせる気か。 おいっ」

 気が抜けたのか、また意識を途切らせようとする彼の頬を軽く叩き、兄の方に会ったかどうかと問い質した。 それによって、これからの予定に大きく差が出るからだ。

「いや、邸の前で彼に会って、そのまま車に……」
「そうか」

 それなら当分はバレないだろう。 だが時間の問題だ。 今日明日中にはケリをつけなければ。

「車に押し込められて、その後…覚えていない…。 気が付いたらここで…か…彼が……」
「いい。 そこまでで。 今は思い出すな。」
「お…俺は…」

 この神父が”俺”と自称するのを初めて聞いた気がした。 否、実際初めてだっただろう。 彼は常に自制し、己を表さないよう努めていた。 その割には解り易い人間だ、と言うのが俺の彼に対する評価だったが、俺は何にも解ってはいなかった。 彼の弱さ、彼の危うさ、彼の隠された暗黒面を。 だからこの時も、素の彼を垣間見て、狼狽えずにはいられなかった。 彼は完全に覚醒し、ベッドから身を起こすと自分の姿を見た。 痣の着いた手首を見、周りを見回し、そして何かを思い出したように焦点を結ばない瞳を見開いて、両の掌でその顔を覆い、呻いた。

「俺は…彼を」
「いいから」
「殺した?」
「殺ってない」
「殺した!」
「いいかっ よく聞けっ」

 苛々した。 強姦された事を先に嘆いて欲しかった。 否、嘆かれても慰めのしようもなかったが。 でも、もっと優しくしてやればよかった。 余裕の無かった俺は、取り乱す彼の肩を掴んで強めに揺すると、顔を間近に寄せて言い聞かせた。 これ以上面倒事は御免だったし、正直どう対処していいか判らなかった。

「まず教会に帰るんだ。 それが第一だ。 服を着ろ。 歩けるか?」
「でも」
「今は黙って言うことを聞け。 ここまで助けに来た俺の苦労を水の泡にする気か。 話は後でゆっくり聞いてやる。」

 溜息混じりに彼の言葉を制すると、彼は項垂れてローブを受け取った。 周囲に散乱していた物を漁ってみたが、見つかったのはその司祭用のローブの他にはスラックスだけで、後は只の布切れだった。 衣服を切り刻んで神に仕える者の肌を徐々に露わにしていく行為に、ヤツはさぞや興奮しただろう。 糞変態野郎がっ 反吐が出る。 怒りが静かに身を侵食した。 が、今はそれを抑え、証拠になりそうな物を掻き集めて暖炉に焼べた。 血の着いたシーツも…。

「…大丈夫か」
「ああ」

 かなりの出血量だと知ってやっと、俺は彼の体調に意識が向いた。 が、一刻も早くここから去らなければならなかった。 立ち上がることさえ儘ならない神父に肩を貸し、隠れ家を出た。 足元が覚束ないのは薬の所為だと思い込もうとした。 俺はこの時まだ、男に犯された男が負うダメージについてよく理解していなかったのだ。 知っていれば歩かせたりはしなかっただろう。 だが、その時点で生々しい想像をする事には非常な抵抗を覚えた。 神に仕える者に対して不敬であると自制する気持ちもあったろうが、それよりももっと何か…自分の内の奥、存在を意識することさえ無かった深い所の何かに気付く事になるのでは…という恐れを感じていた。 俺は、その気持ちを誤魔化すように、肩に掛る彼の体重の軽さに気を逸らした。 自分と大して背格好が変わらないはずの彼は、思いの外軽かった。 そう言えば、全裸の姿も随分と細かった。

「アンタ軽いな。 清貧にも程があるぜ、神父さん。」

 冗談めかして言えば、彼は少し笑ったようだった。 そんな彼にホッとした。 ホッとした自分にホッとしていた。 そんなだから俺は…気付かなかった。 気付けなかった。 この時既に彼の身の内で起こっていた変化と苦痛に。 ましてや、延いてはそれが自分自身の将来に齎すこととなった影響になど、気付くべくもなかった。




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