淋しい兎は狼にその身を捧げ

- A Lonesome Rabbit sacrifices himself to the divine Wolf. -


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 アスマと紅と自分と、三人で誘ってやっとイルカは応と答えた。 自分の誘いには何かと理由をつけてノラリクラリとかわし、決して首を縦に振らなかった彼が、アスマと紅が誘うとちょっと小首を傾げただけでコクリと頷いたのを見た時、やはり何か腹の底の方が黒々としたモノで満たされるのを感じたが、顔色も悪くだるそうにしている様を隠し切れずにいる彼の様子が、背に腹は代えられないという気持ちにさせて、カカシは少し自嘲の笑みを零した。


 長期に亘る遠征から一つの部隊が里に還ってきていた。 何故なのかは解らないが、それからというものイルカの家は売春宿と化していた。 何か談合でもされているのか、戦忍達はかち合うこともなく代わる代わるイルカの家に毎晩訪れ、彼を一晩散々抱き散らかして行くと言う。 あと何人に抱かれれば彼が解放されるのか、はたまた彼らの部隊が再び里を離れるまでそれが続くのか。 カカシには想像もつかなかったが、当のイルカは、上に訴えるでもなく、アカデミーを休むでもなく、ただ日に日に痩せて体調を崩していくだけだった。 木の葉の里では、上官から伽の任務を課されるような悪習が罷り通るような事は絶えて久しかったがその代わり、”自由恋愛”と言う名の関係の強要が確かに存在した。 強要なのか合意なのかは、被害者なのか恋人或いは情人なのかの差だ。 本人の申告無しには回りから訴えることもできない。 どんなに顔色が悪くても、久しぶりに帰郷した恋人のちょっと激しい求めに応えているだけだ、と言われてしまえば何もいう事もできない。 ただイルカの場合、その相手が十数人居ることと、イルカの体調を考慮しない相手であることと、それまでイルカにそのような相手が一人としていなかった事が問題だった。
 短期の里外任務から帰ったカカシがその事実を知った時は既に数日が経った後で、イルカの疲弊ぶりと周囲の同僚達の態度のおかしさからやっと知ったという具合だった。 古株の同僚は、数年前に同じ部隊が帰還した時にもあった事だと苦々しくカカシに教えた。 だからどうしようもないのだ、と。 その時も再三イルカ自身に、訴えるなり身を隠すなりしろと進言したのだ、と。 その時はまだ存命だった三代目にも訴えたのだと、その年輩の同僚は言った。
「三代目は暗部に何か命じたようでしたが」
 それ以上は直接的にイルカの助けになることは何もしてくださらなかった、と若干悔しそうにカカシに言った。

 カカシは、勿論イルカ本人にも詰め寄った。 だがイルカは、大丈夫だ何でもないの一点張りで、カカシには関係のない事だとカカシを突っぱねた。 カカシの求愛にNOと答え続ける彼が夜毎違う男達に抱かれているのを知った時のカカシの気持ちなど全く意に介していないかの如く振る舞われたカカシが、その激しい胸の内を行動に移すのを抑えるのにどんなに苦心惨憺したか。 彼はそれさえも見て見ぬ振りをした。 だが、カカシだとてずっとただ黙って見ているつもりは毛頭なかった。


 頷いた後、アスマと紅の後ろにカカシの姿を見止めた時のあからさまな曇り顔を隠そうともせず、イルカは一回立った自分の机の引き出しを開けて何か小瓶を取り出し懐に忍ばせた。 そうして何でも無い様に四人連れ立って、夕闇の中を居酒屋へとそぞろ歩いたのだった。 イルカは、四人で居る時はカカシにも他の二人に対するように屈託無く話した。 いつも二人きりの時はどうかと言うと、そういう状況にならないように巧みに避けられていたため実のところは判らなかったが、恐らく禄に口も利いてもらえないのではないかと、カカシは思っていた。 上忍師三人と担当下忍の元担任という関係なので、話題はほとんど担当している下忍達の近況に終始したが、事もあろうにアスマは突然、今帰里している部隊のことについて話を振った。
「だから何か俺達に頼みたいこととか、言う事とか、そういうのねぇのか」
「ありませんよ」
 薄く微笑みながら答えるイルカはカカシの方を見ない。 四人で一つのテーブルに座り、対面にアスマと紅なのだからそれは簡単だった。 カカシが何か問いかけてそれに愛想よく答える時でも、イルカは少し顔を斜めに傾げるだけで、カカシの顔は見ない。 手の中のグラスに揺れる液体を見、皿の串焼きなどを弄びながら、だが受け答えは物柔らかく流暢だった。
「噂はいろいろ聞いてるぜ」
「そうですか。 でも、合意ですから、何も問題ありません。」
 イルカが”合意”と言う言葉を使った時だけピクリと反応したものの、カカシは顔色も変えず口も挟まず二人のやり取りをじっと聞いていた。 紅はそんな男達の様子をさも面白くなさそうに見ていたが、いきなりイルカの空いたグラスに酒を注ぎ足し、カカシの見ている前で薬を落とした。 そしてカカシの見えている右眉が一瞬釣りあがるのを一睨みすると、ふんっとあからさまに横を向いた。 そんなモノ誰が飲むんだ、とカカシが内心毒づいた時、イルカは何の躊躇も無く紅に礼を言ってそれを煽った。 そうして初めてカカシの方に顔を向け、にこりと微笑んだのだった。

「飲むと思った?」
 紅は、イルカが「ちょっと失礼します」とトイレに立った後、ぼそりと呟いて二人の男達を睥睨した。
「何を飲ませたんだ?」
「媚薬」
 隣のアスマが低く問うのに一言で簡単に答えて溜息を零す。
「知ってて飲むかしら」
「飲むだろ」
「飲むね」
 二人の男が即答するのに、細く美しい眉を顰めさせて頬付けを着き、またふぅと溜息を吐く。
「…悪かったわよ。」
 手先でお絞りを弄りながらそっぽを向いたまま謝罪の言葉を吐く彼女に、「俺達に謝られてもな」と応じながら、アスマは先程と同じ問いを繰り返した。
「だから、どのくらいの薬なんだ?」
「かなり、苦しいはずよ。 帰りは誰か背負って行かなきゃってくらい。 でも出掛けに持ってた薬、アレ解毒剤なんじゃないの?」
「ああ、俺もそう思った」
「でしょ? だから私、一服盛らなきゃいけない気になったのよ、逆に」
 不満そうに頬を膨らまし、氷の音をカラカラと立てながらグラスを回して紅は言い募った。 カカシもイルカが薬瓶を懐に入れた時、そこまで露に不審を示すなら断ればよいものを、と渋く思っていた。 だが今は、アレは解毒剤ではないような気がしてきていた。
「…何考えてるか全然わかんない」
 カカシが思わずぽつりと零すと、二人は揃って黙り込んでそんなカカシを見つめ、顔を見合わせて、一人はヤレヤレと言った風に首を振り、一人は肩を竦めて新しい煙草に火を点けた。
「もう放っときなさいよ。 彼が進んでやってることなんじゃないの?」
「そりゃあねぇだろ」
「でも、だったら何で何も言わないのよ」
「言えねぇってことじゃねぇのか」
「何で言えないのよ」
「そりゃあおまえ…」
 アスマは言い澱んでカカシを見た。 カカシは視線を感じて上目にアスマをちょっと見ると、先程からほとんど口を付けていないグラスの液体をちびりと舐めた。 カカシは今日は酔うつもりがなかった。
 その時、ざわりとするほどカカシの気配が揺れたので、二人は一瞬だけ店内に視線を走らせた。 カカシは、店に入って来た時からイルカを伺っていた一つの気配が動いたのを敏感に察知しながらも、ぐずぐずと動かないでいたのだった。
「カカシ、見てきたほうがいいわ」
「うん」
 上忍らしき男がイルカに遅れてトイレに向かったのを目の端で睨みながら促す紅に鷹揚に答えてカカシは俯いた。 直ぐにでも飛んで行きたかったが、体は重く動かなかった。
「カカシっ」
 紅が先程より鋭く強く、非難でもするように名前を呼ぶ。 イルカの噂は勿論自分達だけが知っている訳ではなかったから、かの部隊とは無関係のその筋の好き者にも恰好の標的になっていたのだ。
「面倒な事ね」
 ゆらりと立ち上がって歩いて行くカカシの後ろ見ながら紅が呟いた。
「殺気立つくらいならさっさと行けよってなもんだぜ」
 相変わらず口元から煙草を離さないアスマだったが、また新しい煙草を銜え直しているのを見て紅は笑った。
「あんたも見にいったら?」
「なんで俺が」
 男達の馬鹿らしい程のもったいぶり加減を見せ付けられて、もう帰ろうかしら、と内心溜息を吐いた紅だった。

 



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