かけがえのない人をこの腕に抱き締めたい想いを綴る


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かけがえのない人をこの腕に抱き締めたい想いを綴る




 その日イルカはずっと上の空で、生徒達にまで囃し立てられるほどの腑抜けようだったのだが、上司・同僚達は愚か彼の回りに纏わり付くようにしながら課題を粉す生徒達でさえ、咎めるようなことはしなかった。 夕暮れに赤く染まる土手道は、大門からこのアカデミーまでを繋ぐ一筋の藁。 縋るような目でその先を何度も望むイルカを、子供達は慣れた様子で気遣った。
「イルカ先生、あの人はいつ来るの?」
「イルカ先生、あの人、今日帰ってくるの?」
 子供達が口々にイルカを見上げては問いかける。
「もうすぐだよ。 きっともうすぐ。」
 イルカは微笑んで応えた。
 緩く弧を描く土手に囲まれた一段低い広場はアカデミーの校庭で、それぞれに散って術の練習をしていた子供達が何時の間にかイルカの回りに集まっていた。 イルカの回りにドーナッツ状に群がる子供達。 だが、誰もイルカに触らない。 今イルカに触ってはいけない事を子供達は経験でよく知っていたから。
 あの背の高い片目を隠した人が任務に出るとイルカ先生に触れなくなる。 普段のイルカ先生は抱きつくとぎゅっと抱き返してくれて、その時の心がぽかぽかする感じがすごく気持ちいい。 だけど今は触れない。 触ると心が真っ暗になる。
 辺り一面が橙色に染まっている。 空気に混じるのは金木犀の甘い香り。 もうすぐ冬だ。 早く、早く帰っておいで。
「あっ」
「あの人だっ」
「還ってきたよ!」
 子供達は輪になってかわゆらしい小さな手を挙げた。

 イルカにも疾うにその気配が伝わっていたが、イルカに判るようにと遠くから態と気を発するその人の気配の微弱さに、イルカは顔を上げられないでいた。 もちろん気は急く。 早くこの腕に抱き締めたい、と思う。 自分はある程度彼の疲労を緩和することができるだろう。 ある程度の傷と、ある程度の体の不調も、自分は癒すことができる。 だけれども。 自分のこの深い闇を、またカカシに晒さなければならない。
「見えたっ」
「見えたよ、イルカ先生!」
 イルカははっと顔を上げると、堪らずに走り出した。 土手をもどかしく這い登る。 夕陽の中、大きな背嚢を背負った長身のその姿が、長く、長く影を引いていた。
「カカシさんっ」
 縺れるように走る自分の足がもどかしい。
「イルカ先生」
 声が聞こえた気がした。 まだその姿は遠い。 疲れているだろうに、彼も小走りにこちらに近づく。 走らないで、そこで待ってて。 イルカは泣きたい気持ちで走り寄ってその腕の中へ身を投げた。


               ***


「還ってきたわ」
 アカデミーの職員室の窓際の席の誰かが、独り言のように呟いて席を立った。 そのまま窓から下を臨む。 その場に居合わせた全員が、無言で立ち上がって窓辺に寄った。 廊下を歩いていた同僚も、教室に残っていた生徒達も、気がついた者は皆、窓辺に立った。 二人が走り寄ってお互いを抱き締めあうのを、息を潜めて見守る。 土手下に居たイルカの生徒の子供達も、遅れて二人の周りにそろそろと近づき、今となっては慣れた光景をやはりじっと見上げている。 抱擁を交し合うふたりを、アカデミー中が息を潜めて見守っていた。 イルカを抱き締める長身の男が、優しげに、愛しげに、イルカの背を撫で擦り、しきりに何かをその耳元に囁くと、イルカはその腕の中で、ただこくこくと何度も何度も頷くのが見えた。 子供達はその様を、一言も発せずに見上げている。
 どのくらいそうしていただろうか。 長かったのか、短かったのか。 カカシが唐突にその体を引き剥がした。 イルカの両肩を掴んで体を離してから、その顔を覗きこんで一言二言何かを確認するように会話を交わすと、ふたりは離れた。 待ち望んだように、わっと子供達がイルカを支えるようにその体に纏わり付く。 そんなイルカ達を、カカシは二三歩退いて振り返った。 体の位置が入れ替わり、イルカの顔がこちらに向いて口元が何か言葉を紡ぐのが見える。
「だ・い・じょ・う・ぶ・で・す。」
 窓辺で誰かが唇を読んで声にした。
 手を振るカカシにイルカも手を振り、子供達もついでに手を振った。
「よかった。 無事だったみたい。」
 皆、三々五々と席に戻り、それぞれの仕事を再開する。 ふたりが抱擁を交わす様は、何回見ても何か胸に迫るものがある。 大事に誰かを想いたくなる。
「俺も今日は早く帰ろう。」
 誰かが誰へともなく呟いた。


               ***


「よかった。」
「ああ」
「どこも怪我、無いみたいだな。」
「ああ」
「これでイルカに触れるな。」
「うん」
「…」
「カカシさんてさ、凄いな。」
「ほんと」
 渡り廊下の窓辺で立ち止まっていたイルカの同僚が、ふたりが離れたのを確認してからほっと息を漏らして再び歩き出した。 カカシが長期任務に就いて数日経つとイルカに触れなくなる。 しかもそれはイルカの為でなく、自分達の身のかわいさ故だ。 自分達は不甲斐ない。 だけれどもこればかりはどうしようもなかった。 カカシにしかあれはできない。
「でもさ、あの人が現れるまで、イルカ、あんな風にはならなかったぞ。」
「まぁな。 うまくコントロールできてたってことだよな。」
「俺、全然気がつかなかった。 実を言うと。」
「俺は…、知ってた。」
「そっかー」
 どこか同情の篭った目で見られているような気がして、居心地が悪い。 知っていたってどうにもならなかった。 それに、あんな風にはならなかったのだ。 初めてイルカの闇を見たとき、否、感じたと言うべきか、俺は恐ろしさに身も凍ったのだ。
「カカシさんにはさ、責任取ってもらわなくっちゃ、だよな。」
「…取ってるだろ。」
「…」
「なんだよ」
「おまえ、まだ吹っ切れないのか?」
「そんなことないよっ もうとっくに諦めたさ。」
「ほんとかぁ。 おまえイルカ激ラブだったもんな〜。」
「ラブとか言うなよ。」
 ふふん、と鼻で笑った同僚に肩をばんばんと乱暴に叩かれる。 今日飲みに行っちゃうー? と語尾を上げて茶化しながら労わってくれる。 いい奴さ。 先を行く同僚に追いついて肩を並べて歩く。 俺達はこうやって過ごしてきた。 イルカともずっと幼い頃から、じゃれあって幼馴染の子供のまま大人になった。 楽しかった。 このままずっと居られると思っていた。
「イルカの奴、幸せそうだったよなー」
「うん」
「俺達じゃ、あいつにあんな顔、させられないよなー」
「うん」
「飲みに行こうぜ、な?」
 うん、て言ってるだろ。 廊下を走るな。 走って逃げる同僚を追って自分も廊下を走る。 判ってるよ、判ってる。 俺じゃあいつにあんな幸せそうな顔させてやれない。 あいつが今までアンバランスにならなかったのは、そうできる相手が居なかっただけ。 あいつはひとりで何でもない振りをしてたんだ。 それが、あのはたけカカシが現れた途端…。
「おい、そんな顔すんなよ。」
「…そんなってどんなだよ?」
「嫉妬に塗れた顔!」
「…っ してないだろ! そんな顔」
「してるしてるー」
 あははは、と笑われて笑って、俺達は平凡だけど平穏だ。 願わくは、あいつのあの幸せそうな顔がいつまでも続きますように。
「来たぞっ」
 ふふっと笑って先に走り出す同僚を追いかける。
「ずるいぞ、おいっ」
 廊下の先のイルカに向かって。


               ***


 イルカは赤面のし通しで、汗をかくやら頬が熱るやらでたいへんな思いをしながらも何とか職員室まで辿り着いた。 皆が皆、イルカ先生だいじょうぶ? と問うてイルカにべたべたと触ってくるのだ。 それまでの二週間強、誰もイルカに触らないようにしていた反動のように、大丈夫? の一言と接触。 触れた箇所から伝わる労わりの気持ちと少しの体力。 触られれば触られるほど戻る体力に、逆にカカシの消耗振りが窺えてくるのだが、そんな素振りを微塵も見せない彼の強靭さがなんとも言えない。 その強靭さを閨で披露されるだろう今宵の逢瀬を想って、またひとり頬を熱くする。
「またみんなに見られてたんだな…」
 はぁ、と息を吐くと、おまえそれ今更だろ、とまた同僚にからかわれる。 先程途中で同僚二人に会って、それからの大丈夫攻撃からはブロックされたが、代わりに山ほどからかわれたのだ。
「海野はもう帰ってよし。」
 上司にまで笑われる。
「はい、すみません。」
 頭を下げて、それでもいそいそと荷物を纏め、行先確認用のホワイト・ボードに帰宅印を書こうと向かうと、もう既にそこには「海野イルカ:帰宅。明日は代休。」の文字が。
「ぁぅぅ…」
 ぐうの音も出ない。
「それじゃあイルカ先生、明後日ね!」
 イルカは真っ赤になって職員室を出た。

 夕餉の品をあれこれ考えながら、イルカは幸せな夕暮れ時を満喫した。 建物の隙間を射通す黄金の光。 金色の金木犀の香り。
---無事に還ってきた!
 体を抱き締めた瞬間に、彼の無事が判った。 何処にも怪我をしていない。 毒も受けていない。 熱もない。 ただ体力を酷く消耗しているだけ。 高い処から低い処へ流れ落ちる水のように、怒涛の如くカカシに流れ込んで行く自分の体力に眩暈を覚えて揺らぐ体は、だがカカシにしっかり支えられてどうにか立っていた。 吸い取られる体力の替わりのように、自分の深く昏い闇に射す光。 皆、この闇を恐れてイルカに触らないがカカシは逆だ。 イルカから惜しみなく体力を奪う替わりに、イルカの闇を光で埋めてゆく。
「イルカ先生、俺は大丈夫です。 ほら、どこも怪我してませんよ。」
 カカシの腕の中で、イルカはただこくこくと首を縦に振った。
「毒も盛られなかったし、病気もしてませんし、車輪眼も使わずに済みましたから」
 ね、と耳元で囁くカカシの背に縋る指に力を込めて、何度も頷く。
「大丈夫、大丈夫だから」
 体力の流出が止まらない。 どこかで平行化するはずなのに、それほどカカシの消耗は激しいのだろうか。 自分より余程しっかり立っているカカシは、剰え重い背嚢を背負い、腰回りにも幾つも武器・忍具の類を吊るしていた。 もう少し、もう少しならまだ癒せる。 イルカはこの日、この時のために、疲労困憊して帰ってくるカカシを癒すために、ここ数日間体力を温存して過ごしてきたのだった。 怪我や病をせぬように、仕事も極力最低限に抑えて、同僚達に頭を下げてきた。 なのに全然足りない。 いつも思うもどかしい気持ち。 口には出せないが腕に力を込めてカカシを抱き締める。 かけがえのないこの人を、この腕で抱き締めて、その存在そのものを歓ぶ想いを込めて。





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