森の縁の家で


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               恋慕


「いやーーッ! やーッやーッ やーーーッ!!」

 イツキ、否、イルカだが、もうイツキでいいや。 今は知り合った時のまま女で、私の呼びかけには「イツキ」と呼んだ時にしか反応しないのだから。 そのイツキが私にヒシと貼り付いて泣き喚く。 イツキの後ろでは柳眉をハの字に下げた木の葉の現火影五代目綱手姫が、困ったように肩を竦めていた。

「巴のモミジ、アンタが来てくれて助かったよ。 カカシに任務を振れなくてね、困ってたんだよ。」

 イルカもその調子だし、と溜息を吐き、イツキの検診を諦めたのか椅子に座り直した。 月一の検診さえもままならない状態なのだと零しながら。

「カカシのヤツも、ああ見えて大分参ってたみたいだからね、丁度良かったよ。 巴の国元の方へはこちらから連絡入れといたから」
「はぁ」

 手回しのよいことだ。 半年前と同様、ここ木の葉の里でイツキの世話係として”バイト”を始める破目に陥った。 それまでイツキがカカシ以外を受け入れず、他の誰も寄せ付けなかったことと、身体的退行は16・17才の現状で止まっているが精神面の退行現象が早く、今既に5・6歳の状態で、目を離すとフラフラと徘徊してしまうということで、カカシが全てを投げ打って彼女(否、彼か)の世話を一手に引き受けていたらしい。 参っていて当然か。 愛する者がこんなことになっていれば。

「男の体に無理をさせたからな。 体が妊娠を維持しようと他のことを投げ出してしまったんだと、カカシには説明しているんだよ。」
「出産後は元に戻るからと?」
「そうだ」
「外道ですね」
「!」

 言った途端、横で黙って書類整理をしていた黒髪の秘書の女が目を剥いてヒクッと喉を詰まらせたような音を立てた。 ふーんだっ イツキの世話をさせたかったらこのくらい我慢しやがれってんだっ と睨み返すと、彼女が私ではなく横目で綱手姫をびくびくと窺っていて、その額には冷や汗が浮かんでいて、自分としてももう一度綱手姫の方へ視線を戻すのがちょっと恐くなったりしたが、見たい気持ちも抑えられず、恐る恐る顔を戻すと、机に両肘をついて顔の前で手を組み合わせオドロオドロしいオーラを醸し出している現木の葉の里火影が居た。

 殺られる?

 そう思ったら止まらなくなった。 頭のネジが、先日ここへ来た時にどこかへ飛んだらしい。

「外道で人非人の糞野朗ですよっ 人体実験など医忍の誇りを捨てたか? 恥を知れっ」
「つっ 綱手さまっ お、落ち着いてっ!」
「モミジ、またケンカ? モミジ、ケンカだめよ?」

 不穏な空気にイツキが腰にしがみついたまま半べそを掻く。 秘書らしき女が綱手姫が口を開く前にぴょんっと飛び上がって叫ぶ。 わぁ、もうダメかもー、アタシったらここで死んじゃうんだわー、なんて考えたらもう笑いが止まらなくなってしまった。 怒る女と顔面蒼白で宥める女と壊れたようにバカ笑いをする女、そして怯えて震える純情無垢な少女が一人。 恐い図だ。

「と・も・え・の・モミジ~~」
「ぎゃはっはっはっはっ な、なんすかっ」
「アンタって女は~~っ」

 だが、綱手姫がダンと机を叩いて立ち上がると、イツキはビクッと跳ねて私の胸に顔を埋めてしまったが、秘書の女は姫の顔と喋り出した声音から何を感じ取ったのか、くるっと振り返るとこちらにパチッとウィンクを寄越し、そのまま自分の机に戻ってしまった。 つまらないことこの上ない。

「まったくっ アンタの噂はい・ろ・い・ろ聞いてるよ。 聞いた通りだってことも今判った!」
「なんと聞いてるんですか」
「誰にでも喧嘩を売って、それでいて誰からも可愛がられると。 羨ましいな。」

 肩で笑っている。 なるほど、”人道的な里”かと、自国の里を想った。 巴の国の隠里は木の葉ほど勢力的に国と対等でない。 国に頭が上がらないのだ。 矜持を曲げねばならない事も多くあった。 里の幹部は皆苦労している。 そんな中で角突き合わせるこの性格と”女”という立場が、”可愛がられる”と表現される現在の立場を作り上げている。 それが悔しくて堪らないのに、それに甘えなければとっくにこの世に居ない事も重々承知している。 それがまた悔しいのだ。

「今回の事は、あの子は全く知らなかったんだよ。 全部、私とイルカの二人で進めたんだ。 あの子は後で、つまりイルカが女体化した後で聞かされた。 悲しんでいたよ、心から…。 だからあんまり今の調子であの子を責めないでやっておくれよ。」
「あの子…。 あんな恐ろしい男でも、アナタにとっては”あの子”なんですね。」
「生まれた時から知ってるからねぇ。 それに、他里の者にとってはさぞや恐ろしい忍なんだろうけど、あの通りとんだダメ男でね。 手がかかるったらないんだよ。」
「ほんっとにダメ男ですよね」

 頷いて激しく同意を示すと、背後で先程の秘書もウンウンと首を縦に振っている気配が伝わってきた。 木の葉の女が皆、アイツの信者という訳ではないと判り、心底ほっとした。

「ダメ男なんだが、忍としては最高級品なのも確かでね。 イルカは、誰よりもそれを判っていて、その上その時必要で自分にできる事なら何でもしてしまえる男なんだよ。 ほとんど躊躇も無かった。 どちらかというと私達の方がイルカの勢いに引き摺られて、この話を進めてしまった。 もしイルカが元に戻らなかったら…」
「その話は今は無しにしましょう。 今しても詮無いことです。」
「そうだな」

 腰に縋ったままでいるイツキの黒髪をするりと撫でると、彼女はふっと上向いてその瞳に一瞬正気の光りを灯したので、私達は早々にそこを辞した。

               ・・・

「森へ散歩に行こう、イツキ」

 まだ若芽で疎らな葉の隙間からは、春の麗らかな日がこの深い森の中にも幾らか射し込んだ。 その中を、小さな手を引いて漫ろ歩く。 この森の辺の家に彼らと同居を始めてから1ヶ月が経とうとしていた。 森の少し奥へ入った所に野性の槐の木を見つけてからは、そこまで歩いては木の様子を見て帰るのが天気の良い日の日課となっていた。 そろそろ蕾を摘める頃合だ。 イツキは8ヶ月になっていた。



 「二人とも、ちょっとソコへお座りなさいっ」とこの”夫婦”を正座させて説教をしたのは来て直ぐの事。 同居してみて彼らが確かに”めおと”なのだと判った。 夜の営みが激しいのだ。 いくら安定期に入っているとはいえ、余りに激しすぎる。 イツキがこんな状態なのだから”夫”のオマエが抑制してやらないでどうすると諭すと、このダメ男は不貞腐れてこう言ったものだ。

「だって、男の生理だもん」

 なぁにが生理じゃあ、この頭ど腐れ男がぁっ これだけ胎児が育ってたらセックスの時に母体が感じて子宮が収縮したら苦しいだろうが、あぁぁん? 節度を知れ節度をっ

「だ、だぁって」

 だってじゃなーいっ

「わかったよぉ、ちょっとにシとくよぉ」

 我慢しようって気はネェのか、オマエはっ 父親になる自覚あんのか?!

「俺、父親にはなんないもん。 生まれたら元に戻ったイルカ先生とまた前通りに暮らすんだもん。」

 はぁ?

 てな具合にこのアホ男が心底この状況を迷惑がっていて、これっぽっちも親の自覚や責任感が無い事が判ったのである。 里の遣り方が悪かったのは認めよう。 それにしてもだ。 ここまでダメだと怒る気も失せると悟ったことよ。 このアホでダメ男は、男のうみのイルカを心から愛していて、こうして夫婦生活を営んでおきながら”彼”のことが恋しくて恋しくて堪らないのだという事も判った。



「ほらイツキ、槐花米をちょっと摘んどこうよ。 今ちょうど摘み頃だよ。」

 振り返って手招きすると、イツキは立ち止まって槐の木を見上げていた。

「本当だ。 もう花の季節なんですね。 前に来た時はまだ春になったばかりだったのに…」
「イツキ… いや、イルカ、さん?」
「はい、モミジさん。 お世話になってます。」

 にっこりと微笑む顔が大人びていた。 イツキは、実は全くの”幼児”と言う訳ではなかったのだ。 時々こうして正気に戻る。 いつ、どんな場合にかは解らなかったが、突然こうして知性の光りをその目に灯した。 ”幼児”であった間の記憶はあやふやなようで、前回”戻った”時から時間の感覚が飛んでいるようだったがその間に見聞きした事柄はちゃんと覚えていて、綱手姫の診察室で聞いた「カカシが悲しんだ」発言をいつまでも気にしていた。

「カカシさんは元気でしょうか?」
「ああ、アイツは相変わらずだよ」
「ふふ、お手柔らかにお願いしますね。 あの人ああ見えて打たれ弱いんですよ。 ああでも、お腹、結構おっきくなったなぁ。 もうすぐ産まれるんですね。」
「そう…だね」
「じゃあ、そろそろあの話、詰めなきゃいけませんね」

 あと何回こうして正気に戻れるか判らない。 臨月が近付くに連れて間隔が開くようになってきたように感じるとイツキは言う。 カカシの気持ちも判っている。 里の意向も契約した内容も覚えている。 そして自分の覚悟も決まったと、彼、否もうこの場合母性が勝っているのだから彼女と言うべきか、うみのイルカは迷惑を承知の上で更に迷惑になることをこうして私に頼んできた。 私はバカで喧嘩っぱやいがそこら辺の優男より余程フェミニストなレズ女なので、こんなイイ”女”の頼み、聞かない振りはできないのだ。 ついに私も覚悟を決める時が来た。 この娘のために自分の国も、木の葉も、敵に回す覚悟が。





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