死がふたりを別つまで [番外]
- Until Death Do Us Part. -
- incognito_2 -
このような所で何をやっているのかと、その人は突然わたくしの前に降り立った。 その姿は恰も死神か破滅の天使か。 わたくしはあまりに突然な彼の出現に言葉を失い、ただ右手に持ったままだった杯を上げて見せた。 彼は雰囲気にそぐわない仕草で小首を傾げた。 この場所とわたくしの無用心に対して憂慮を示そうとしたらしいのだが、その口は途中で止まりその灰青色の瞳は幾分見開かれていた。 それには、わたくしの方が少なからず驚かされた。 その人をこのように驚かせる事がわたくしにできるとは、思いも寄らなかったからである。
彼は、ここが遠くから明るく光って見えた所為で一言中進に寄ったのだと言った。 だが見たとおり明かりなど灯してはおらず、わたくしも困惑するしかなかった。 ただ彼は、任務の還りに純粋な厚意で態々足を向けてくれたのであり、その事が彼の身分と自分のそれとを引き比べると、自分にとっては非常に過分の対応であったことは明白で、わたくしは頭を下げて礼を言った。 その顎をついと冷たい指先が捕らえ、ぐいと彼の顔のある方に上向かされる。 全身に震えが走ったが、何とか耐えた。 彼は、わたくしの顔をまじまじと眺めると、見た覚えがあるので名を所望したいと宣った。 わたくしもアナタを知っている。 その銀の髪、青い瞳。 戦場を駆ける白い雷。 銀の牙。 里に居ること自体が稀なはずの人。
九尾の贄か
わたくしの名を聞き、興味深げに瞳を瞬かせた彼ははっきりとそう言った。 そのようにはっきりとその事をわたくしに面と向かって言葉にする人はかってなかったので、わたくしは驚いてまた言葉に窮した。 その事を知っている者は少なく、また知っている者なら余計にわたくしを忌み嫌うのが常だからだ。 だが彼は、何含むところ無さ気にこう言い添えたのだった。
大任だ 辛かろうが木の葉にために耐えてほしい
わたくしは、この任を辛いと思った事はなかった。 ただ、浮世が辛かった。 辛い浮世に耐えられなくなるとここへきて、独り月を愛でながら酒を飲んでいたのだ。 獣と妖の気配しかしないこの森の奥深くで、わたくしは初めて息を吐くことができた。 それに、このような言葉をかけてくれる人は三代目を除いては居なかった。 気が付くと零れそうになっている涙を必死で堪える自分が居た。 わたくしは顔を俯かせて、はい、と答えた。 もう顔を上げることは叶わぬ、一声たりとも漏らすことも叶わぬ。 わたくしはこの方の前で泣くことはできぬ、と唯それだけを念じて彼の足先を見つめていると、肩にふわりと温もりを感じてわたくしは…
わたくしは、ぱたぱたと座った木の枝の上に落ちる自分の涙を見ていた。 そんなわたくしに自分のマントを着せ掛けた彼は、暗闇に銀の軌跡を引いて、無言で闇に溶けていった。
・・・
わたくしにとってこの世で唯一人のその人は、わたくしに他の男の匂いがついているとたいそう怒った。 そして何時にも増してわたくしを責めた。 彼は、この狭い彼の居場所から一歩たりとも出ることができない。 そんな彼に、わたくしは浮世でのわたくしのあれこれを話した事はなかった。 些細なあれこれは話しても、森に独りで行かねばならないようなあれこれは話せなかった。 だからどうしてその人に会ってどうしてマントなどを借りる事になったのか、説明できなかった。 彼の怒りが中々収まらずに、終にはわたくしを喰らうと言っても、泣いて頷くしかできなかった。 彼が、自分にはそのような事ができようはずが無い事をわたくしが承知の上でそのように泣くのかと詰っても、わたくしにはそれしかできなかった。
だが、三日後に御山を降りて里に戻ったわたくしの状況は、俄かに剣呑なものとなってわたくしを待ち構えていた。 つい最近何かが起きて里の上層部でかなりの人事変動があったのは聞き及んでいたのだが、一介の中忍のわたくしには与り知らぬ事と然して興味も抱かずにいた。 が、どこでどうなったのかわたくしへの排斥活動にも繋がったらしく、わたくしは里中で同里の者達に襲われた。 幸い事無きを得たが、襲撃は一回に止まらなかった。 三代目火影は、わたくしに暗部を一人付けることにしたと、執務室にわたくしを呼びつけて言った。
おまえに何か有った場合、九尾の怒りが里を滅ぼすだろう
わたくしに、はい、と答える以外何ができるだろう。 息子はまだ幼く、世は大戦の影響下にあった。 このままの現状を維持する以外にわたくしにできることはない。
が、そこで引き合わされた一人の暗部面の男にわたくしは驚かずにいられなかった。 その人の気配は、確かに彼のマントの持ち主本人だった。 その様な、ただの護衛任務などを請け負うような立場の方ではあるはずがないその人に、わたくしが唯々言葉を失っていると、彼が訳あって今里に留まっており暇をしているのだと、三代目が言葉を濁したのだった。
・・・
襲撃は数回に及んだ。 だがわたくしに護衛が付き、その護衛が徒者ではないと知れた途端それはぱたりと収まった。 おそらく有能な指導者の下で組織的に行なわれていた事なのだろう。 その事がわたくしをより暗い気持ちにさせたが、黙々と自分の任を遂行するその人に、自分で借り物を返すことができたのは僥倖だったと考えることにした。 彼は、わたくしを例の理由で蔑まないで側に居てくれる唯一の人となってくれたからだ。 わたくしの孤独を理解し、わたくしの苦しみを察してくれた。 三代目からそれとなく聞かされた彼の微妙な現状も、わたくしの彼への親近感を増す事に拍車をかけた。 わたくしは、彼に請われれば彼を誘い、あの森のあの場所へ二人で行く事も厭わなくなっていた。 獣の気配のみに囲まれたその場所で、二人でただ酒を酌み交わす。 わたくしは弱く、頼れる人が側に居ることに甘えずにいられなかった。
わたくしが襲撃に遭っていたことは御山にも伝えられ、護衛の者の匂いがついている事だけは許されるようにもなっていた。 わたくしは益々浮かれた。 この身を贄として差し出してからこの方、この時くらい心楽しく里で過ごせた時はないと、真実思った。 だが心のどこかでは自分の罪深さを知っていたのだと、知っていて目を逸らしていたのだと、わたくしは気付いていたのだと思う。 彼は精神を病んでいた。 付け込んだのだ。
ある夜、森のあの枝に二人で居た。 二人とも酒をかなり過ごしていた。 わたくしは緩んだ心の箍の所為か意味もなく笑い、彼に呆れられた。 それもまた楽しかった。 酔っていた。
危うい手元から落ちた杯を追ってバランスを崩し枝から落ちかけたわたくしを支え、彼は突然真剣な眼差しを向けてきた。 笑い声も絶えて急に訪れた静寂に耐えかね、わたくしは彼の胸を押した。 彼の名を呼び、いけません、と震える声で訴えた。 だが彼から得られた答えは、唯々わたくしの名を呼ぶ切ない響きと、腰に回された腕と、塞がれた唇だった。 抗う手も、非難めかしく呼ぶ声も、今から思えば徒に為された言い訳の紛い物。 わたくしは涙を零しながら身体の奥深くに彼を受け入れ、これから来るであろう裁きを思い、ただひたすら恐ろしさに怯えた。 その裁きは、最悪の形となってわたくしに齎された。
・・・
己惚れるな
三代目火影はわたくしをそう罵った。 御山から一週間ぶりに帰され火影邸に収容されてから数週間後のことだった。 護衛は変えられていた。 御山の主の怒りがわたくしを食い殺さなかった事が、わたくしを失望させ、一人逃げてしまう事など許されないのだと、火影にも御山の主にも突きつけられて、わたくしはわたくしの罪に唯々打ちひしがれた。 だが彼の傷付いた心が受けた打撃は、失望などではなかった。 絶望、それは死に至る病。 己惚れるな、と火影に詰られなければわたくしも罹っていたかもしれないそれは、その時のわたくしには甘美にさえ思えた。 それがその病の病たる所以なのだ。 だが、最も罪深く矮小で価値のないこのわたくしは、御山の主の一言で今現在に至るまでこうして此処に留まらされた。 償う当てのない罪を悔いながら。 それがオマエの罰なのだと知らしめられながら。
・・・
「前に父さんが木から落ちそうになった時に助けてくれたあの人って… この場所、父さんが教えたの?」
心臓が止まりそうだった。 息子が彼の事を語っている。
「違うよ。 あの時偶然通り掛ったと仰ってた。」
「ふーん。 背の高い人だったね」
「そうだね」
「ちょっと恐そうだったね」
「優しい人だよ」
「あの人、また来る?」
「…」
あの人はもう、この世の人ではないんだよ、と喉まででかかった。
「どうかな」
確か、イルカと同じ年頃の息子さんがいたはずだ。 どこでどうして居るだろう。 寂しい思いをしていないだろうか。
「ね、父さん、僕も誰かにここを教えて一緒にきてもいい?」
「イルカ…」
オマエはどうか幸せに。
「ダメだよ、イルカ。 ここは父さんとイルカの二人だけの秘密だろ?」
「うん!」
ここは、浮世が辛い自分の現実逃避のための場所だ。 ただただ世を忍んで泣くため来る場所だ。 だからここへ来ると気が緩むのだ。 ひた隠しにしている本音が出てしまい、自分を抑えられない。 甘えてはならない人に甘えてしまう。
素直に頷く息子の頭を撫で、心の底から願う。 どうかこの子は幸せに…。
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