森の縁の家で
15
槐 その2
「母さんは居ないよ」
そのオジサンはものすっごく怪しかった。 顔の下半分のほとんどが黒い布で隠れていて片目も額宛を態々斜めがけして隠している。 覗いているのは右目だけだ。
「ちがうよ、留守じゃなくって元々居ないの。 死んじゃったの。」
唯一見えている片目が歪んだ。 泣きそうだ。 ますます変だ、この人。
「そうだよ、母さんの名前はイツキだよ。 でもボク、母さんのことはあんまり知らないんだ。 だってボクを産んですぐ死んじゃったんだもん。 サンゴノヒダチが悪かったんだって。 父さんがそう言ってた。」
”父さん”と言う単語を使った途端、オジサンの顔付が険しくなった(気がした、だって隠れてるんだから)。 なんだよ、なんなんだよ、いったいっ 父さんを苛める気か?
「父さんのこと? 大好きだよ、もちろん! 新しい母さんなんか居ないよ。 父さんは死んだ母さんのことがすっごくすっごーーく好きで愛してたから、もう他の人をお嫁さんにする気は無いっていつも言ってるもん。 母さんだってそうだったって。 そうだよ、すっごく父さんのこと愛してたんだよ。 もう激ラブだったんだって。 ほんとだよ!」
気がつくと、両手で握り拳を作って力説してしまった。 ボクとしたことが恥ずかしい。 落ち着け、ボク。
「父さんは今仕事で出てるけど…。 まだすぐには帰らないよっ 忙しいんだ!」
父さんに会ってどうする気だ?コイツ。 父さんはちょっとぼーっとしてるところがあるから、こんな胡散臭いヤツにかかったらどんな詐欺に遭うか判んないぞ。 高価い物買わされたりとか、変な契約させられたりとか、とにかくボクがしっかりして父さんを守んなきゃならない。
「とにかく帰ってよ。 知らない人を家に上げたらいけないって、ジョウシキでしょ? 一昨日来やがれっ じゃなくって、あさって、明後日また来てっ」
父さんが帰ってきたら今晩中に夜逃げだ。 この町気に入ってたんだけど仕方ない。 こんな事これが初めてじゃないし、こんなヤツも今まで何人も来た。 その度に父さんと逃げて別の町に行ってたんだから。 あんな父さんをどうして狙うのか判んないけど、ボクが守ってあげなくちゃならない。
「だって、アンタすっげぇ怪しいじゃんっ!!」
あんまりしつこいので子供らしく怯えた顔を作って撃退の呪文を叩き付けてやると、その怪しいオジサンはもうそれ以上ないくらい哀しそうな顔を更に哀しげに歪ませると、慌てて口布と額宛を取った。 それからしょんぼり項垂れると、どうしても父さんに会って大事な話をしなくちゃいけないんだって、聞こえないくらい小さな声で言った。 初めて露になった顔は、隠していた方の目に縦に傷があって、でもそんな隠さなくちゃいけないくらい醜い傷じゃないのになって感じで、髪の毛は銀色だった。 ボクと一緒だ。 この辺じゃあんまり見ない髪の色なんだけどな。 顔もどこかで見たような気がする。 でもボクはまだ5年しか生きていないし、不覚にも3才より小さかった頃のことはちょっとしか覚えていない。 要するに、ここ2年間の記憶しか無い訳で、その間にこんな怪しいオジサンに会っていたらさすがのボクでも忘れないと思う。 変だ。 どうみても怪しい。
「エンジュ〜 たっだいま〜っ」
その時、間の悪いことに父さんが帰ってきた。 父さんはいつでも間が悪い。 しかも暢気な声で遠くからボクの名を呼ばわりながらの登場だ。 隠しようがないよ、まったく。 もうしょうがないな、ここはボクが何とかしなきゃ。 そう思ったその時、怪しいオッサンが手に持ってた額宛をボトっと落とした。
「イ…ルカ先生…… 生きて…た…」
搾り出すような声がした。 このオッサン、どうして父さんが”先生”だって知ってるんだろう。
「カカシさんっ?!」
”カカシサン”? 父さんの方も吃驚したように立ち止まって声を上げた。 父さんの知り合いなのか? これにはボクもちょっと驚いた。 いや、本当に驚くのはこの後だったんだけども。
「イルカ先生ぇっ」
怪しいオヤジは父さんに走り寄ってなんといきなりキスした! もう、いきなりだ。 片手で首の後ろをガツっと掴んで父さんが逃げられないようにしてから、もう片方の手で父さんの顔を掴んでぶちゅーーってぶちゅーーってっ!(わなわな)
「お、おいっ この変態オヤジっ!! 父さんに何する! 父さんを離せっ!!」
もちろんボクは慌てて二人の間に割り込んで何とか引き剥がそうと頑張ったけど、足を少し広げただけだった。 だって背がぜんぜん足りないんだもんっ 5才の身が口惜しい。
「父さんっ 父さん、逃げてったらっ!」
もう、父さんも父さんだ。 いくらボンヤリのウッカリだからって、こんな変態くそオヤジにいつまでもキスさせとかなくたって! それに、こんなボンヤリでウッカリの父さんだけど、今までもっと大人数に囲まれた事もあったけど、イザって時にはいつもスルッとかわしてボクを連れて逃げ遂せていたのに、なんでこのくそオヤジには逆らえないんだ!
「変態オヤジッ いいかげんに父さんを離せッ! 父さんッ 父さんったら!(恕)」
「イルカ先生ぇ、俺、変態オヤジって、母さんて、父さんってぇ(泣)」
剰え、やっと口を離したかと思ったらこのクソ変態オヤジ、父さんに縋って訳判んないこと並べて泣きついて、ええい、大人だったらしゃんと喋れしゃんとぉっ!
「父さんっ」
「イルカ先生ぇっ」
「は…はぁ」
ボクと変態くそオヤジは競争するように父さんに詰め寄った。 でも父さんは困ったような顔をして、いつもの脱力系の返事をして、場の雰囲気を台無しにしたのだった。
・・・
もうその後のことは考えたくも無い。 父さんが母さんで実はボクを産んだのは父さんでほんとの父さんはこの変態くそオヤジで激ラブに愛し合ってたのもこの二人でってなんだそりゃあああっ! 温和なボクもさすがに切れるぞ、こら。
「捜したんですよぉ〜〜っ もう、ずーっとずーーーっと捜して捜してぇ(泣)」
「父さん、ボクのこと5才だと思ってからかってんの?」
「イルカ先生が死んじゃったってこの子言うんだもん、俺、もう心臓が止まりましたよ百回くらい」
「”この子”じゃなくってエンジュですよ、カカシさん」
「百回心臓止まってたらおとなしく死んどけっ この変態っ! 死んだのは父さんじゃなくって母さんだっ!」
「俺のこと変態変態って、酷いですぅ〜(泣)」
「変態に変態言って何が悪い! 父さんはホモなんかに渡さないぞっ! ええーい、くっつくなっ 離れろっ!」
「イルカ先生ぇ〜〜」
「まぁまぁ、とにかく二人とも、中へ入りましょう」
父さんが、聞いてんのか聞いてないのか相変わらず暢気な声で言うので見上げると、変態くそオヤジを荷物みたいに背中にくっつけたままにこにこ笑っていた。 その顔が、今まで見たことの無いような、ないような…なんとも言えないほにゃっとした顔で…ショックだった。 いつもボクを連れて逃げる時なんか、「大丈夫だよ」って言いながらほんとは泣きそうなのやっと我慢してるのボクちゃんと知ってたんだからネ。 クソっ このオヤジ、変態のくせにボクがどうしてもできなかった事をあっさりしやがった。 くやしい。 ボクだってやっと5才になって、来年からはアカデミーにも入るし、父さんに「だいじょうぶ、ボクが居るよ」って言ってあげられるようになれるって、がんばるぞって思ってたのに! クソッ クソクソクソッ! くやしくって情けなくって泣きそうだった。
だから、玄関から入る時、父さんにくっついて離れない変態オヤジを見ないようにして先にズンズン上がったら、玄関脇にある姿見に自分が映ってて、その顔が、その顔が… クソーーーッ!!
「ボクだ…」
どこかで見た顔だと思ったのは、自分の顔だったと判った。 その瞬間の敗北感を一生忘れない。
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